3.フラード国境



執務室の扉が、音もなく開いた。 領主は目を通していた書類から顔を上げ、そちらの方を見る。

見慣れぬ青年が、そこに立っていた。

真っ先に目を引いたのは、髪の色だった。 『赤毛』などという程度ではない。 少しくせのあるその髪は、真っ赤としか言いようがなかった。 おそらく染めているのだろう。
改めて青年の姿を見ると、髪の色以外にも奇妙な所が多かった。 髪の色だけでなく、瞳の色も赤い。 そして、鎧を着けている。 それ自体がこの場所に不似合いではあった上に、見た事のない材質だった。 骨のように白く、光沢が無い。 肩当て、両腕、胸部、腰部、脚部の5部位になっているそれは、印象としては軽装で、歩兵のもののように見える。 鎧の隙間から覗く服の色はダークグリーンで、軍隊の装備のようにも思えた。

しかし、こんな装備の軍は、領主の知識の中には無かった。

「何者だ?」

青年に向け、領主は尋ねる。

「いけませんねぇ」

彼の言葉を無視し、青年が言った。

「領主様のお屋敷ともあろうものが、こんな手薄な警備では」

青年は続けながら、領主の方に近づいてきた。 いつの間にか、右手に剣を持っている。
彼は領主のすぐそばまで近づくと、その剣を領主の喉元に突きつけた。

「何が…望みだ…」

領主は、全身の毛穴から冷や汗が吹き出るのを感じていた。 青年はその様子を面白そうに眺めると、左手でその真っ赤な癖毛をいじる。

「いけませんねぇ」

嘲る様な光が、その真っ赤な瞳に浮かぶ。

「これでは、暗殺など簡単に出来てしまう」

領主は、身じろぎ一つする事が出来ない。

「いけませんねぇ」

青年の口には、にやにやとした笑いが浮かんでいた。


1.

もう少し暖かくなってくれればいいのに…。

暖めたミルクを入れたマグカップを両手で包みつつ、アルフィスはそう思った。

レルトの村からシュネルに戻って来て数日、朝はかなり冷え込むようになっていた。 もうそろそろ秋が終わり、冬が訪れる。 そんな季節なのだから、気温が低くても当然ではあった。 しかし、冬支度をする程寒くなっている訳ではない。

『光の道標』停の食堂で、テーブルの一つについたまま、アルフィスは食堂の中を見回してみる。 中途半端な気温のせいで暖炉には火が入れられず、冒険者達は思い思いの格好で寒さを凌いでいた。 中にはまるで夏のような服装の者もいるが、いまからそんな状態では、真冬になったらどうするのだろうと思える格好の者もいる。

ふとカウンターの方を見てみると、チュルクが時々アルフィスの方を向いては、カウンターの下に手を入れ、何やらごそごそとやっていた。

「やあ〜、アルフィス〜。 おはよう〜」

声がした方にアルフィスが顔を向けると、2階から紫色の髪の青年が降りてきた所だった。 この宿を拠点とする冒険者の一人、魔術師のティムだ。 日焼けでもしたように浅黒い肌をした彼は、瞳の色も紫色だった。 顔立ちが中性的な上に、少し髪を伸ばし気味にしているため、男性と知っていなければ女性と勘違いしてしまいかねない風貌をしている。 今起きて来たのだろう。

彼に挨拶をしようとアルフィスが立ち上がりかけた時、チュルクから制止の声が飛んできた。

「アルフィス! ちょっとそのまま動かないで!」

アルフィスは、反射的に動きを止めてしまう。

「ちょっとそのまま待っててね!」

軽く腰を浮かした状態なので、あまり長くはこの体勢でいたくない。 アルフィスがそう思った時、再びチュルクから声がかかった。

「よしっ! もういいよ!」

チュルクは満足気な表情でそう言う。 ティムが不思議そうに彼女の方を見た。

「チュルク〜、何をしてるんだい〜?」
「これこれ!」

エプロンドレスにおさげの少女は、にっこりと笑いながら羊皮紙をかかげた。

「似てるでしょ!」

羊皮紙に描かれた長い髪の少女は、明らかにアルフィスだった。 どうやらチュルクは、さっきからこれを描いていたらしい。

「ああ〜。 いつものを描いてたんだね〜」

納得したような表情でティムが言う。 アルフィスには、どういう事なのか良く判らなかった。

「チュルクさん、それを何に使うのですか?」
「アルフィスは知らないんだっけ? 冒険者ギルドでは、こういう決まりになってるんだよ! お尋ね者なんかが紛れ込んで来ちゃいけないから、宿の方で人相書きを描いて、統治元に提出する決まりなんだ!」
「チュルクさんはそんな事もやってるんですか。 それにしても上手いですね」
「えへん! ずっとやってるんだもん!」

得意そうな表情になり、チュルクは胸を張る。 似顔絵を褒められた事に気を良くしたのか、満面の笑みを浮かべていた。 2本の三つ編みが、微かに揺れる。

「そうそう、こんな事も出来るんだよ!」

彼女は羊皮紙をカウンターの下に置くと、再び何やらやり始めた。

「どう? 色っぽいでしょ?」

どうやら、アルフィスの似顔絵を修正していたらしい。 似顔絵の中の彼女は、艶のある表情に変わっていた。

「チュルク〜…」

その似顔絵を見たティムが、非難に満ちた声をチュルクに投げかける。

「それを提出するのかい〜?」
「あっ…」

チュルクは唖然とした表情になっていた。 ティムに指摘されるまで、その事に気付かなかったらしい。
アルフィスは呆れたが、そんな人相書きを自分の物として出されては困るとも思った。

「チュルクさん、それを提出されるのは、やめて頂けると…」
「…そうだよね。 ゴメン! 描き直すから、しばらくじっとしててくれないかな?」

両手を顔の前で合わせて頭を下げつつ、チュルクはそう言った。

「いいですけど…」

アルフィスは承諾したものの、なんとなく釈然としない。
そこでティムがふと何かに気付いたのか、チュルクに向けて口を開く。

「それの提出先って、リーライナ神殿じゃなかった〜? ここはリーライナ自治領だし〜」
「あっ…」

3人の間に、間の抜けた沈黙が訪れる。

「アルフィスの人相書き、描かないでも良かったんだね…」

困った表情になり、チュルクが自分の描いた人相書きに目を落とした。

「どうしよう、これ…」

言いながら、チュルクはアルフィスの方を見る。 そんな事を訊かれても、彼女はどう答えていいか判らなかった。

「そう言えば、レイギンはどうしたの〜?」

唐突に、ティムが話題を変えた。 これ幸いとばかりに、チュルクが即座に答える。

「随分前に、散歩に行くとか言って出てっちゃったよ」
「レイギンはそう言うけど、何処に行ってるのかわかんないからなぁ〜」

ティムが首をひねる。

「前は、釣りに行くとか言って出て行っちゃった事もあるんだよね。 竿も持たずに」
「あれ〜? でもあの時、何匹か魚を持って帰って来てなかったっけ〜?」
「そう言えばそうだったね。 どうやって捕ったんだろう?」
「小石でも投げつけたんじゃない〜? レイギンだったら、小石で魚を撃ち抜けそうじゃない〜」
「あり得るね…」

二人の話を聞いている限りでは、レイギンは時々、どこかへ出かけてしまうらしい。 シャールから来た彼が一体何処に行っているのか、アルフィスには不思議だった。

「レイギンさん、何処に行ってるのでしょう?」
「ホントに散歩なんじゃないかな? 何かと歩き回るの好きみたいだし」

そう言いながらチュルクは、何故か少し困ったような表情をしていた。


口の中に、塩味がいっぱいに広がる。 塩味しかしないと言っても過言ではない。

(こいつは…)

これでは塩辛いを通り越して、口の中が干上がると言っても過言ではないくらいだ。 その様を、レイギンはどう表現していいか判らない。

テーブルの向かいに座っている少女は、両手の上に顔を乗せて、神妙な表情でレイギンの方を見ている。 ダークブラウンのその瞳が、訴えかけるように彼の方を見ていた。

「イリス…これは…」

なんとか言葉を搾り出す。

「どんな…意図で…こうした…」

レイギンの表情と声色から、少女は出来を察したらしい。

「やっぱ、ダメ?」

神妙な口調でそう言う。
レイギンは躊躇っていたが、率直に言うしかないと思った。

「これはさすがに、俺でも食えないぞ」
「レイにぃでも食べられないなら、誰も食べられないねっ!」

あっけらかんとそう言う彼女には、悪びれた様子は微塵もない。

「失敗しちゃったっ!」

彼女は笑いながら、そのやわらかそうな薄茶色の髪を「ぽん!」 と叩いた。
レイギンは、非難がましい表情を彼女に向ける。

「新しいやりかたで燻製を作ってみたから試しに食って欲しいとか言ってたが、そもそもどんな物を作ろうとしたんだ?」
「レイにぃが冒険者やってるから、思いついたのっ! 時々食料の保存に困る事があるって言ってたよねっ? だから、徹底的に保存性を追及してみましたっ!」
「いくら保存性が良くても、食えない代物じゃ意味がないだろう」
「だよねっ! 上手く出来れば売れると思ったんだけどっ!」

イリスはあははと笑う。 燻製屋の娘として、新しい物を作り出そうとする姿勢はいい。 問題なのは、間違いなくろくでもない代物が出来上がる事だ。 10試作したうち、1つでもまともな出来のものがあれば、まだ店の役に立っていると言えるのだが…全てが売り物にならないものばかりでは、さすがに材料費の無駄としか言いようがなかった。 そもそも普通なら、食べられる範疇に収まる物が出来上がる筈だ。 食べられないものばかり作り出すのは、ある意味才能とも言えた。

「いつまで経ってもそんな調子じゃ、じいさんとばあさんが悲しむぞ」
「失敗は成功のもとっ! 1つの成功の影には、千の失敗があるものなのっ!」
「マトモな物が出来上がるまでに、千回失敗するつもりか…」

レイギンとしては、呆れる他ない。
その時部屋の扉が開き、一人の青年が入ってきた。 髪の色と瞳の色はイリスと同じ。 年齢も同じ位だろう。

「おや兄貴、来てたのか?」

レイギンが来ていた事に、今初めて気づいたらしい。 彼はテーブルの上にある皿、その上に載った燻製を目にすると、まさかとでも言いたげな表情をレイギンに向ける。

「兄貴、それ食ったの!?」
「ああ…」
「食い物じゃないだろ、それ…」

彼は言いながら、非難に満ちた視線をイリスに向けた。 イリスは、不思議そうな表情で彼の方を見ている。

「ナークにぃ、どうしたのっ?」
「人に食わせる前に、まず自分で食ってみろよ…」
「だってっ! 冒険者向けにと思って作ってみたものだよっ? わたしが試食したってわからないじゃないっ?」
「イリスが試しに作る燻製を食うのは、兄貴でも拷問だと思うぞ…」

彼がイリスを非難しても、当のイリスは全く悪いと思っていないようだ。 このままでは、話は平行線を辿るばかりだろう。 いや実際に、二人の話はいつも平行線を辿っている。

いつものようにきりがなくなりそうだったので、レイギンは話を打ち切る事にした。

「はは、ナークリヒ、その位にしておいてやれよ。 その内少しはマトモなものが出来るだろう」
「兄貴はイリスに甘いんだよ…そんなだから、イリスがずっとこんななんだ」

ナークリヒはそこまで言うと、急に何かを思い出したような表情になる。

「兄貴が来てたとなると、あれは兄貴目当てかな?」
「何かあったのか?」
「表に燻製を並べてる時に気付いたんだけど、道の向かいからずっとこっちを見てる女の人がいてね…それとなく様子を覗ってたんだけど、ずっとこの店を見てるんだ」
「腹が減って、人の目が無くなる隙を狙ってる…って訳じゃなあさそうだな」
「猫じゃないんだから…」

半ば呆れた顔でナークリヒはそう言うが、彼は警戒の表情に変わりつつあった。

「シャール人じゃないと思う。 フラード人のように見えるけど、そうじゃないかもしれない」
「ナークにぃ! そんな事じゃダメじゃないっ!」

憤慨した様子でイリスが言った。

「そこは声をかけるんだよっ! 燻製お一ついかがですかっ、って!」
「そんなイリスみたいな事、出来るかよ…」

ナークリヒは、うんざりした様子で言う。 心底声をかけるのが嫌そうな表情になっている。
レイギンは彼の様子を少し訝しんだが、イリスの言った方法も悪くはないと思った。

「まぁ、イリスの言う事も間違っちゃいないな。 イリスが言いたいのは、相手のペースを崩せって事だろ?」
「そうそうっ! 何か買わせるには、相手のペースを崩す事が肝心だよっ! 勢い勢いっ!」
「おい…」
「それは冗談としてっ!」

イリスもまた、警戒の表情を浮かべた。 今までの勢いが嘘のように、声を潜める。

「監視されてる?」
「いや…」

ナークリヒは、なんとも判断が着かないようだった。 考えてみれば、彼が声をかけるのを嫌がっていた理由が判らない。 イリス程の積極的な接客ではないとは言え、彼は燻製屋の店員としての役割をきちんとこなしている。 売れる脈があると見れば、声くらいはかけている筈だ。 となると、少なくとも脈が無いように見えたという事になる。

「どんな様子だったんだ?」
「監視って感じじゃないんだよ。 その…」

ナークリヒは困惑した表情になる。 彼がそんな表情になるという事は、件の女性は、明らかに不自然な様子だったという事だ。

「そわそわしてたの?」

探りを入れるような表情で、イリスが訊いた。 彼女なりに、状況を分析しようと試みているらしい。

「いや…睨んでたんだ」
「睨んでいた?」

素直に受け取れば、彼らのいる燻製屋に敵意を持っている事になる。 そうなると商売敵という事になるのだが、この燻製屋は商売敵が出来るほど、派手な事をやっているとは思えなかった。 個人的な怨恨かもしれない。

「ナークリヒ、恨まれるような覚えは?」
「ないねぇ。 自分は…」
「ナークリヒ」

続けようとした彼の言葉を、レイギンは遮った。

「『自分』はやめろ。 『俺』か『僕』くらいにしておけ」
「あ…そうだね…」

レイギンに指摘されて始めて気付いたらしく、ナークリヒはばつが悪そうに頭をかいた。 彼は少しの間黙っていたが、気を取り直して続ける。

「僕は御用聞き回りとかには出ないから、そもそも恨まれるような心当たりはないんだ。 イリスは時々そういう事やってるみたいだけど…」

そう言って、ナークリヒはイリスの方を見る。 同じように彼女の方を見たレイギンの頭に、ふとある考えが浮かんだ。

「イリス、売り物に試作品を混ぜて売ったりしなかっただろうな?」
「そんな事しないよっ! 失敗作が売り物にならない事ぐらい、わたしでも判ってるよっ!」

イリスはぶんぶんと手を振りながら、懸命に否定していた。 その様子から見る限り、彼女の言葉は正しいようだ。 ただ、あまりにも必死すぎるところを見ると、考えた事はあったのかもしれない。

しかしそうなると、件の女性の目的が判らなくなってくる。

「それで、俺か」
「ああ。 兄貴は冒険者やってるから、恨みを買うなら兄貴が一番ありそうだと思ったんだ」
「女に恨まれるような事をした覚えは、ないんだがな」
「レイにぃがそう思ってるだけかもしれないよっ? レイにぃにひどい目に遭わされた人の身内とか、恋人とかかもしれないしっ?」

いつの間にか、イリスはいつもの調子に戻っていた。 警戒するほどの事ではないと思ったのかもしれない。

「俺が行って見れば判る事か。 もし俺が目当てなら、ここから出りゃ追っかけてくるだろう」
「そうだね」

ナークリヒはそうは言ったものの、イリスとは違い、警戒を解いていないようだ。

「でも、もしシャールからの暗殺者…トパーシャニールに関係していたら、どうする?」
「その時は、消しましょう」

何でもない事のようにイリスが言った。
レイギンは、さすがに呆れてため息をつく。

「おい、燻製屋の娘。 そんな事を言う燻製屋の娘が何処にいる?」
「…ごめんなさい。 まだ、抜け切っていないようです」
「仕掛けられた時は仕方ないが、こっちから仕掛けるようなマネはするなよ?」
「兄貴の言う通りだ。 冒険者をやってる兄貴ならともかく、自分…僕とイリスは、ただの燻製屋の兄妹だ」

ナークリヒは、自分に言い聞かせるようにそう言った。 イリス程ではないとは言え、このような状況になると、かつての血が目覚めるらしい。

(なかなか上手く行かないもんだな…)

戦いとは無縁の生活を望んではいても、そう簡単には抜け切らないようだ。

「なんにせよ、探ってみよう」
「あ、そうだ兄貴。 その女の人は、暗殺者じゃないと思う」
「どうしてだ?」
「見つからないよいうに仕留めるって感じじゃないんだ」

ナークリヒの表情は困惑していた。

「真正面からバッサリ、って感じなんだよ」

今度は、レイギンの方が困惑する番だった。


レイギンはナークリヒとイリスに別れを告げ、燻製屋を後にする事にした。 件の女性がフラード人らしいという点から見れば、第二王妃がらみの者と考えるのが妥当だろう。 早くもアルフィスの居場所を嗅ぎ付けて来たという事になる。

(それにしちゃぁ…どうして俺なんだ?)

そこは腑に落ちなかったが、アルフィスの味方の身辺調査をしているという事だろうか?

(それなら先に、『光の道標』の方を調べそうなもんだが…)

ただ、『光の道標』亭は、フラード中に根を張った『冒険者ギルド』に属している店だ。 ギルドは民間の警備・トラブル処理組織として力を持っているし、ギルドの創始者はフラード建国の功労者だと聞いた事がある。 系譜自体は、貴族と同じだ。 そんな組織とのいざこざは避けたいのかもしれない。
それに、レイギンはシャールから流れてきた事を公言しているため、妙な誤解をされている事もあり得る。

(シャールの間者と思われてたとしても、敵扱いにゃ変わりないか)

結局敵対する事になるのなら、どう思われていようと同じ事だ。 場合によっては、相手の誤解を利用できる可能性がある。
そんな事を考えながら、レイギンは燻製屋の横にある勝手口から外に出た。 細い路地が、街道から続く大通りに続いている。

一人の女性が、道を挟んで燻製屋の向かいに立っていた。

(あれか?)

少し暗めの金髪を、長く伸ばした女性だった。 皮製と思われる薄手のベストに、袖の長いブラウス。 スカートの丈も足元まである。 顔立ちは、整っていると言える方だろう。 年の頃はレイギンよりも少し下、20歳過ぎくらいだろうか。 少し釣り目気味の目からは、気が強そうな印象を受ける。

気が強そうどころか、明らかに燻製屋の方を睨んでいたが。

(確かに、あれじゃあ声をかけづらいだろうな)

一応、ただの街娘の可能性も考えてみた。 ならば、あんな表情をしている理由は…ここで誰かと待ち合わせをしているが、相手がいつまで経っても来ないのかもしれない。 むしろ、その方が考えられる気もする。

(もしあの女が第二王妃の手の者だとしても、あんなあからさまな監視をしてくるようじゃ、たかが知れてるな)

もしかすると、第二王妃の勢力は人材不足なのかもしれない。 権力を手にしてからそう間が無いようだから、きちんとした組織作りが出来ていない可能性がある。 あからさまな監視をさせて、逆にそう思わせる方法を採ったのかもしれないが、それはそれで苦肉の策と言える。

(とは言え、希望的観測は禁物か)

何しろ、まだ相手の何もかもが判らない。 用心するに越した事はないだろう。

思いながら、レイギンは大通りに出る。 彼の姿に気付いたのか、女性がちらりと彼の方を見た。
その事に気付かぬふりをして、大通りを歩き始める。 レイギンは彼女の気配に意識を向け、気配の感じを覚えた。

(ただの街娘だったらいいんだが…こんな攻撃的な気配の街娘はいないか)

横目に、女性が歩き始めたのが見えた。 背後に意識を向け、気配を感じ取る。

明らかに、女性はレイギンの後を着いて来ていた。


(さて、どうしたものか…)

大通りを歩きながら、レイギンは考えていた。 少なくともこの女性は、ただの街娘ではない。 戦う者の気配を発している。 それは確かなのだが、隠密に類する者ではないようだった。 ナークリヒの行った通り、真正面からの戦いを得意とする者の気配に近い。

(そもそも、何がしたいんだ?)

相手の目的を考えてみるが、ここまであからさまな尾行をされると、逆に目的が判らなかった。 もしかすると、本人は上手く尾行しているつもりなのかもしれない。 だとすると、レイギンの行く先や行動を監視している事になる。

(そうは言っても、真っ直ぐ『光の道標』に帰るだけなんだが…)

彼がそうした場合、この女性はどうするのだろう。 燻製屋の前でしたように、ずっと『光の道標』亭を見張るつもりだろうか? 燻製屋の前でどれだけの間そうしていたか知らないが、放っておけば一晩中でも見張っているような気がする。

(不審者として捕まるぞ)

ここリーライナ自治領の売りの一つは、治安の良さだ。 冒険者の宿である『光の道標』の近くにはあまり来ないが、それでも時々神官戦士が巡回してくる。 その上、冒険者と組んで仕事をするリーライナの聖職者は比較的多い。 そんな者達から不審者とみなされれば、そのまま連行されてしまうだろう。

(そういう事があるから、今の所は手を出して来ないのかもしれないが)

そう考えると、アルフィスを『光の道標』亭にこもらせておくのが一番良い事になるのだが、もしフラード王がアルフィスの行方を探しているのなら、今度はそちらに見つかり易くなってしまう。

(どの程度までやってくるつもりなのかが、見えればいいんだがね)

レイギンはそう思った。 考えようによっては、この女性を締め上げる手もある。 下っ端だろうから、おそらく何も知らされていないだろう。 しかし、どんな命令を受けているか位は掴める筈だ。
そこまで考えてみて、レイギンは別の可能性に思い当った。

(こっちの程度を探ってるのか?)

あり得るかもしれない。 もしそうなら、明日以降はだんだんと隠密の技に長けた者が出てくる事になるだろうし、レイギンの力を測り終えた時点で仕掛けてくるだろう。

(俺とまともに戦えるほど錬度の高い奴が、いるのかね?)

そうは思ったが、いないとは限らない。
それに、もう一つ可能性があった。

(この女は囮で、本命は別にいる…あり得なくはないか)

レイギンはその考えの真偽を判断するため、気配を読むことに意識を集中させた。 とは言っても、 幾度となくやって来た事だけに、慣れきっている。 端からは、普通に歩いているようにしか見えない筈だ。

(…いないな)

特に気になる気配はなかった。

(何もなしじゃ、あちらさんも退屈だろう。 仕掛けてみるか)

どの場所で仕掛けるのがいいか、レイギンは考えてみた。 さすがにここで仕掛ける訳にはいかないだろう。 細い路地を利用すれば背後を取れそうだが、大声でも上げられたらたまらない。 最悪の場合、暴漢に仕立て上げられてしまう。

(そういう事まで考えて、女を使ってるのかね?)

だとすると、それなりに考えている事になる。 ちょうど良い場所はないだろうか。

(場合によっては、チュルクから袋叩きにされかねないからな、あの女が)

レイギン自身には、尾けられて困る事は殆どない。 しかし、全くない訳ではなかった。 そしてそれは、チュルクとも関係していた。 もしこの女性がチュルクと衝突する事になってしまえば、チュルクまで巻き込んでしまう。

そもそも、毎日毎日尾け回される事になってしまったら、正直うっとおしい。

(そう言えば、少し離れた所に放棄区画があったか)

人が住んでおらず、建物が放棄されたままの区画が比較的近くにあった。 なんでも、数年前に起こった地震で突然地面が崩れ、特異的に地盤が弱いとか言う理由で放棄されたそうだ。 リーライナ神殿が立ち入り禁止の命を出した上に、そこで何が起こっても関知しないと明言したため、今では完全に放置されている。 まともな者なら、好き好んでそんな場所に足を踏み入れようとはしない。

(そこにしておくか。 そこに俺を誘導して待ち伏せ、って線もあるが)

早々に離脱出来るなら、それでもいいような気がした。 手に負える範囲ならば相手をしてもいいが、放棄区画とは言え街の中だ。 出来れば斬り合いはしたくない。 そもそも彼の考えすぎで、待ち伏せはされていないかもしれない。

少し考えて、レイギンは放棄区画に向ってみる事に決めた。


レイギンの後を歩きながら、女性はほくそ笑んだ。 可能であれば放棄区画へ誘導せよとの命令だったが、どうやらレイギンはそこに向ってくれそうだ。 わざと素人くさい尾行をした甲斐があったというものだ。 彼を誘導し終わった後の事は聞いていないが、おそらく始末する事になるだろう。 放棄区画へ誘導しろと言うからには、そこには仲間がいる筈だ。 もし自分一人の手に負えなくても、複数でかかれば、勝てない相手ではあるまい。

そこまで考えて、彼女は再び不機嫌になった。 彼女が見た限りでは、この男はあまり強そうには見えない。 こんな相手、自分一人でも十分始末できる。 直接始末しろとの命令では無かったのが、彼女には不満だった。 自分が信用されていないように思える。

(まあいい。 放棄区画まで誘導できれば、少なくとも私の成果になる)

無理やりそう思うことにした。 自分がこうやって尾行しなければ、この男を放棄区画に誘導する事は出来なかったのだ。 誰がなんと言おうと、それだけは間違いない。

男は、順調に放棄区画の方に向っている。 おそらく今は、優位に立っていると思っているだろう。

(私から何か引き出そうとするつもりだったのだろうが、どんな顔をするか見ものだ)

彼女は、再びほくそ笑んだ。



ここまで来れば、もう間違いない。

レイギンはそう思った。 放棄区画に近づくにつれ、だんだんと周囲の人影が少なくなってくる。 危険な場所に近づいているのだから、そうなって当然だろう。

それでも、相変わらず女性はレイギンの後を着いて来ていた。

(待ち伏せされているとしても…地面が落ちて全員まとめて出られなくなったりしたら、どうするつもりなんだろうな?)

ふとそう思ったが、放棄区画が放棄された理由が、リーライナ神殿の言っている通りとは限らない。 別の理由である可能性もあるし、そもそも何もない事も考えられる。

(そこを考えても、仕方ないか)

相手にする事になる者たちを、上手くあしらえればいいのだが…もし隠密に類する者であれば、素直に口を割るだろうか?

(分が悪いかもしれないな…)

遅れを取る事はないだろうが、ただ単に相手を叩きのめすだけでは、殆ど何の意味も無い。

そんな事を考えているうち、いつの間にか放棄区画のすぐそばまで来ていた。 区画に入ってすぐ仕掛けて来るとは思えないが、そうならないとは言い切れない。 気配を探っておいて損はないだろう。

感じ取れる限りの範囲で、レイギンは気配を探ってみる。

(む…)

後を尾けてくる女性のもの以外、気配は全く感じられなかった。 本当に誰もいないのかもしれないし、レイギンが感じ取れる範囲の外にいるだけかもしれない。
しかし、もう一つ可能性があった。

(俺が気配を読めないほど、気配を殺すのに長けた奴がいる可能性があるな…)

もしこの街で第二王妃の手の者が仕掛けてくるつもりなら、目的は当然アルフィスの暗殺だろう。 彼の後を着いて来ている女性のような者でなく、その道に長けた者を送り込んでくる筈だ。 もちろんそれは、本業の暗殺者という事になる。 並大抵の暗殺者であれば気配を読み取る自信があるレイギンだが、気配を読み取れない程の者がいないとも限らない。 そうでなくても、本気で仕掛けてくるつもりならば、並みの者は送り込んで来ない筈だ。

(送り込める中で一番強い奴を、いきなり送り込んで来てもおかしくないか)

フラードは広い。 レイギンより強い者がいたとしても、何の不思議もないのだ。 もしこの予想が当たっていれば、待ち伏せされていた場合は分が悪い。

(最悪のケースを想定しておいた方が良さそうだな)

もう少し進めば、完全に放棄区画の中に入り込んでしまう位置だった。

彼は少し考えた後、その場で立ち止まった。


彼女は、思わずぎょっとした表情を浮かべてしまった。 すぐにその事に気づき、慌てて表情を戻す。 とは言っても、元々険悪な表情をしていたのだから、大して程度が変わった訳でもない。

目の前の男は、きびすを返していた。

彼が180度向きを変えたせいで、目が合った。 警戒の無い、彼女に興味なさげな表情をしていた。

男は歩き出し、彼女の方に向ってくる。 彼女の方を見もせずに、そのまま横を通り過ぎて行った。

(感づかれた!?)

彼女はそう思ったが、男の表情からはそんな風には見えなかった。まるで気まぐれにここに来て、また気まぐれを起こして戻って行こうとしているように見える。 何を考えているか読み取れない。

(別の場所へ行こうとしている!?)

もしかしたら、この男は元々放棄区画へ行こうとしていたのかもしれない。 何しろ、こちらが目をつけていた人物だ。 仲間がいて、放棄区画で密会をする予定だった可能性がある。 彼女に尾行されている事に気付き、それを取りやめたとも考えられた。

(『光の道標』へ戻る気か!?)

もしこの男がそうするなら、実際に放棄区画へ行こうとしていたと思っていいだろう。 その場合、この男はおそらく彼女を撒こうとはしない。 自然を装い、何事も無かったように宿へと帰って行く筈だ。

その考えが正しいにせよ間違っているにせよ、この男を放棄区画へ誘導する事自体は失敗と言えた。

こうなってしまった以上、この男がこれからどう行動し、何処へ行くのか、確認して報告する必要がある。
彼女はそう判断すると、この男の後を追う事にした。

彼女からしてみれば、ひどい目に遭ったとしか言いようがなかった。

まず最初に彼が向った方向は、明らかに『光の道標』の方向ではなかった。 怪訝に思いながら彼女が後を着いて行くと、行き着いたのはリーライナ神殿だった。 その中に入るのかと思ったが、男は少しだけ立ち止まると、神殿の前にある噴水にコインを投げ込んでいた。 そしてまた、別の方に向って歩き出す。

男は、今度は南に向かって歩き始めた。 どこへ向うつもりか判らないまま着いて行く。 あまりに脇目もふらず歩いて行くため、港町ツェルニッヒまで行くつもりかと、半ば本気で思った程だ。 彼は露店の前で突然立ち止まると、薄いパンで肉と野菜を包んだ物を買っていた。 食べるのは妙に早かったと思う。

彼は再び向きを変え、今度は北東の方向に向って歩き始める。 ここは、何がきっかけになったか判らなかった。 またもや突然向きを変え、今度は西に向って歩き始める。

(あの燻製屋に戻る気か?)

彼女がそう思い始めた頃、男はまた別の方向へ向って歩き始めた。 このまま進めば、放棄区画の方へ向っていく。

(やはり放棄区画に…私を撒いたと思ったのか?)

彼女の予想通りなら、後を追い続けた成果がやっと出た事になる。 最初に放棄区画の近くにいた頃から、もう数刻が経とうとしていた。 男はその間殆ど歩き詰めだったが、疲れた素振りは全く見えない。 逆に、常に彼の動きに気を配っていた分、彼女の精神的な疲労は半端なかった。

男は彼女が尾行している事に全く気付いていない素振りで、放棄区画の方へ向って行く。
疲労のせいもあってか、精神が妙に高揚してくる。

(間違いない!)

彼女がそう思った矢先だった。

男はまたもや向きを変え、別の方向に向おうとしている。

ぶちっ!!!

彼女の中で、何かが音を立てて切れた。
周囲に人影がない事を素早く確認すると、距離を詰めて男の前に躍り出る。

予想以上に体力を消耗していたらしく、息を切らしながら下を向いてしまった。

男は、怪訝そうな表情で彼女の方を見ているようだ。

彼女は下を向きながら、右手で放棄区画の方を指差した。

男は、声一つ発しない。

「ぜぇ、ぜぇ」

息切れのせいで、顔を上げ、男の方を睨むのが精一杯だった。 男は、黙ったまま彼女を見ている。

「ぜぇ、あっちなんだろう! ぜぇ」

男は何も言わない。

「あっちなんだろう!!! ぜぇ、あっちなんだろう!!!」

男の表情が、少し変わっていた。 どういう訳か、賞賛の色が浮かんでいる。

「あっちなんだろう!!! なぁ!!! あっちなんだろう!!!」
「ほう…」

初めて男が声を出した。 表情は、賞賛の色が強くなっていた。

「あっちなんだろう!!!! お前が行きたいのは、あっちなんだろう!!!」

彼女は今や、激しい口調で言っていた。 声も大きくなっている。 もし人通りがあれば、周囲から好奇の目で見られていた事だろう。
男は彼女の問いには答えず、賞賛するような口調で言った。

「なかなかの回復力だな」

ぶちっ!!!

再び彼女の中で、何かが音を立てて切れた。
素早く右手を下げようとする。

腕を掴まれたような感触があり、彼女は手を下げ切る事が出来なかった。

(なに!?)

驚いて右手を見ると、実際に腕を掴まれていた。 彼女の前にいた筈の男は、今は彼女のすぐ右にいる。
一瞬の出来事だった。 彼女の目は、男が移動した事すら捉える事が出来なかった。

「やめておけ」
「なにを…」
「街中で太腿を晒すようなマネは、はしたないぞ」

彼女は男の顔を睨みつけた。 スカートの下、太腿の位置に隠した短剣を引き抜こうとした事を見抜かれていたらしい。 この男は、彼女が思っていたよりも能力が高いようだった。

彼女は、掴まれた右手を振りほどこうとした。 乱暴に手を振ると、予想に反して、あっさりと男は手を離した。

「弄んだな…」
「何の話だ?」
「私が尾行していたのを知って、弄んだな!!! そうだろう!!!」

彼女は男の方を向いたまま、すっと後ろに退いた。 そして、男の方を指差す。

指差すと言うよりは、まるで指を突き刺そうとするような様だった。

「覚えておけ!!!」
「覚えていろと言われてもな…」
「何が言いたい!?」
「俺はあんたが何者かすら、知らないんだが」
「ヒルデだ!!!」

怒りに満ちた表情で、彼女はそう言う。

「覚えておけ!!!」

彼女はそう言い放つときびすを返し、どこへともなく走り去って行った。

「…ありのままを上司に報告したら、大目玉を喰らうんじゃないか?」

レイギンは呆れ返った顔をして、そう呟いた。


人の気配が全く感じられない廃屋が続いていた。 既に日は落ち、月明かり以外に周囲を照らす物はない。

無人の放棄区画を、ヒルデは歩いていた。 レイギンを誘導するよう命令されていた場所に向う。 彼を待ち伏せするのが目的だったのなら、仲間がいる筈だ。 自分の失敗のせいで、待ちぼうけを食らわすわけにもいかない。

気は重かったが、それ以上にむしゃくしゃしていた。 レイギンの力を測るためにあのような命令が下されたのなら、自分が返り討ちにされる可能性も考えられていた筈だ。 自分は捨て駒という事になる。 もしレイギンの能力を把握した上での命令なら、やはり自分は捨て駒という事になる。 普通は、能力の高い者を捨て駒に使ったりはしないだろう。 となると、自分は能力が低いと評価されている事になる。 それが面白くなかった。

とは言っても、そのせいで自分のすべき事を放り出してしまうほど、彼女は子供でもなかった。 むしゃくしゃしながらも、所定の場所に向う。 これで誰もいなかったら、その場で大声を上げてしまいそうだった。

程なく、彼女は所定の場所に着いた。 人の気配は感じられない。 もしかすると、彼女一人にレイギンを仕留めさせるつもりだったのかもしれない。

(それならば、まだ気も済むが…)

しかしそうなると、彼女は完全に任務に失敗してしまった事になる。 言い訳はしたくなかったが、もっともらしい理由くらいは考えておいた方がいいだろう。

彼女は立ち止まると、ゆっくりと周囲を見回した。 やはり、人の気配はない。 ここに長居しても、時間の無駄以外にはなりそうになかった。

そう思ってヒルデが立ち去ろうとしかけた時、突然声がかけられた。

「失敗したか」

驚いて、彼女は周囲を見回す。 人の気配は全くなく、空耳ではないかと勘ぐってしまった程だ。

「失敗したのは仕方ない。 しかし、このような時刻まで何をしていた?」

空耳などではなかった。 はっきりと声が聞こえる。 しかし、どこから発されているのか全く判らなかった。 ヒルデの背中を、冷たいものが走り抜ける。 声を出す事が出来なかった。

「何をしていたか訊いている」

言葉だけ取れば、焦れているようにも、憤慨しているようにも取れる。 しかし、声には感情が全くこもっていなかった。 感情を押し殺しているだけかもしれない。

直感的に、自分に命令出来る立場の者だとわかった。

「も、申し訳ございません!」

その場で直立不動になり、うわずった声でヒルデは言った。

「謝罪を求めたつもりはないのだがな。 何をしていた?」
「半刻ほど前までは、ご命令のあった男を尾行していました! 男は二度ほどこの区画に近づいたのですが、この場所まで誘導する事は出来ませんでした!」
「レイギン・シュヴァルツは、どう動いた?」
「それは…」

ヒルデは言いよどんだ。 ありのままを話せば、自分が弄ばれた事を話す事になる。 彼女にとってそれは屈辱だったが、報告しない訳にもいかない。 重い口を開く。

「尾行に気付いた上で、意味もなく街中を歩き回っていました」
「いいようにあしらわれたと言う事だな?」

言葉の意味を確認するように、声は訊いて来る。 ヒルデは、屈辱感に歯を食いしばった。

「はい…」
「力ずくで連れてくる事は出来なかったのか?」
「出来ませんでした…」

声は、ヒルデが認めたくない点を容赦なく突いて来る。

「手に負えなかったという事だな?」
「はい…」

悔しさのため、彼女の目尻に涙が浮かんだ。 声は、ヒルデの無能を確認するかのような質問ばかりしてくる。 彼女はどんどん自分を否定されて行っているように感じたが、失敗したのは事実だった。 申し開きが出来る雰囲気でもないし、そうしてしまえば、自分で無能を肯定する事になる気がした。 事実のままを答えるしかない。

「二度この区画に近づいたと言ったな? レイギン・シュヴァルツはここに来ようとしたのか?」

今度の質問には、率直に答えられそうだ。

ヒルデは感じたままを口にした。

「最初は、この区画に入り込もうとしたように思えます。 しかし、すぐ近くまで来て引き返しました。 この区画に仲間がおり、会合をするつもりだったのかとも思いましたが…」
「最初から尾行に気付いていたとすれば、それはあるまい」
「はい…」

声は沈黙した。 何かを考えているのかもしれない。 その沈黙が、ヒルデを徐々に冷静へと引き戻して行く。 同時に、恐怖の感情が芽生え始めていた。 今になっても、相変わらず声の主の居場所が掴めない。 気配すら感じない。 声の主は、隠密の技、暗殺の技に長けた者だという事がはっきり判る。 しかも、失敗のせいで、ヒルデは不興を買っていてもおかしくなかった。

自分は、ここで消されてしまうかもしれない。

ヒルデがそう思い始めた時、やっと声の主が言葉を発した。

「似たような者達が集まっている所に放り込んでやれば、尻尾を出すかもしれぬな。 依頼を装い、そうしてみる事にしよう」
「それは…危険なのではないでしょうか?」
「お前が考える事ではない」

即座に否定され、ヒルデは恐怖に首をすくめる。 感情のこもった声ではないが、それが逆に恐ろしかった。

「お前には、もう少し働いてもらう」

ヒルデには、反論の余地はないようだった。


チュルクが、さっきからずっとアルフィスとおしゃべりをしている。 話の内容に興味はないが、チュルクが一方的に話しているように見える。 彼女に付き合っている所を見ると、アルフィスも暇らしい。 時々相槌を打っては、チュルクの話を聞いていた。

(アルフィスに飲み物でも勧めりゃ、少しはヒマでなくなるだろうに)

チュルクはエプロンドレス姿の上にカウンターの中にいるにも関わらず、仕事をしようとする気配すら無い。

(まぁ、ヒマな時に、無理してまで仕事を作るものでもないか)

カウンター近くのテーブルで、時折コーヒーの入ったマグカップを口に運びながら、レイギンはそんな風に思った。 何気なく食堂の中を見回してみる。 昼時にはそれなりに一般の客も入る『光の道標』亭だったが、既に正午からは随分と時間が経っていた。 殆ど客はいない。

(昨日のヒルデとか言った女…仕掛けて来たと考えるべきか?)

レイギンは考える。 昨日の女性の一件は、どう判断すべきだろう? 本格的に仕掛けてくるつもりだったのか、それとも探りを入れてきただけだったのか。

(そう言えばあの女、最後に妙な事を言っていたが…)

ヒルデと名乗った女性は、レイギンが放棄区画に用があると決め付けていたように思える。 あの場は反応を見せずに通したが、実際のところ意味が判らなかった。 レイギンを放棄区画の中に誘導したがっていたのは、ヒルデの方ではないだろうか。 それが何故、レイギンの方が放棄区画に用がある事になるのだろう。 何を考えていたのか、さっぱり判らない。

(妙な勘違いをしてるんじゃないだろうな?)

どんな勘違いなのかは、さすがに思いつかなかった。

レイギンがそんな事を考えていると、入り口の扉が開いた。 何気なくそちらを見て、レイギンは眉をしかめる。

(おい…)

昨日ヒルデと名乗った女性が、そこにいた。 彼女は誰かを探すように店の中を見渡すと、レイギンの方を向いた。 彼女がにこりと笑う。

彼女は真っ直ぐに、レイギンのいるテーブルに歩いて来た。

「レイギン様、向かいの席、よろしいですか?」

再び、彼女はにこりと笑う。

(レイギン『様』だと!?)

レイギンは、不可解そうに彼女の方を見た。 彼がちらりとカウンターの方を覗うと、チュルクが驚愕した表情でこちらを見ていた。 アルフィスは呆気に取られているようだ。

「何をしに来た?」
「仕事の依頼を」
「そういうのは、マズいんだがね」

レイギンは言葉通りの意味でそう言ったのだが、ヒルデは別の意味と取ったらしい。

「そうですね。 ここではあまり都合が良くないかもしれません。 落ち着いて話せる場所があれば良いのですが…」

彼女はゆっくりと店の中を見回す。
レイギンは軽くため息をつくと、カウンターにいるチュルクに声をかけた。

「チュルク、奥を使わせてもらうぞ」

チュルクは動きを止めていた。 レイギンに声をかけられても、そうされた事にすら気づいていないようだ。
再び、レイギンは声をかける。

「一番奥の部屋を使うぞ」
「あ、うん!」

チュルクは慌てて返事をすると、付け加えた。

「10ルシュタだよ」
「高いな」
「食事取ってくれる訳じゃないんだよね?」
「まあな」

少し不満げな顔をしてレイギンは立ち上がると、カウンターの方に歩いて行った。 アルフィスの頭が、彼の動きを追って動く。
レイギンはカウンターを挟んでチュルクの前に立つと、純銀貨を一枚、彼女の前に置いた。

「あんまり長く使うと、追加料金もらうね」

チュルクはそう言いながら、カウンターの下からランプを取り出し、火を点けた。 半ば呆けた表情で、レイギンにそれを渡す。どうやら、まだ実感が沸かないらしい。
レイギンが何も言わずヒルデの方を向くと、彼女は無言で頷いた。 立ち上がり、奥へ向おうとするレイギンの後に続く。

カウンター横、2階への階段の前を通り過ぎ、レイギン達は食堂の奥、幾つかの個室が並んでいる場所への通路に入った。

「あれ???」

レイギンの後に続くヒルデを目で追っていたチュルクが、何かに気付いたように小さく声を上げる。
通路は左右に伸びており、レイギン達は左に曲がった。カウンターからは、二人の姿は見えなくなくなる。

「・・・。」

チュルクは神妙な表情で、通路の入り口を見ている。
アルフィスも彼女と同じ方向を見ていたが、呆然とした表情をして完全に固まっていた。

「チュルクさん…」

彼女の声からは、完全に生気が抜けていた。

「あの方をご存知ですか?」

チュルクは答えない。 彼女は、今や険しい表情に変わっていた。

「チュルクさん…」

再び声をかけられ、チュルクはやっと声をかけられている事に気づいたようだ。 ぴくりと体を動かし、アルフィスの方を向いた。

「あっ、アルフィス、何かな?」
「あの方をご存知ですか?」
「見た事ないなぁ」

記憶を辿っているらしく、チュルクは右の三つ編みを弄りながら上を向く。

「やっぱり、あたしは知らないや」
「どなたなんでしょう…」
「あたしに話してくれた事がある人じゃないなぁ…」

半ば独り言のように言いながら、チュルクの表情が再び険しくなって行く。

「あの…」
「良くないなぁ…」

もはや、チュルクの耳にアルフィスの言葉は届いていないらしい。
アルフィスは、絶望的な表情でチュルクの方を見た。

「良くないなぁ…」

再びそう言うと、チュルクは厨房の中に入って行った。


レイギンは、一番奥の個室に入った。 中にはテーブルと、2つのイスしかない。 一応ここに食事を頼む事は出来るが、彼が知る限り、そうされた事は全くなかった。 他にも同じような部屋があるが、この部屋はその中では最も小さい。 今回のように、一対一で話をする場合に用いられる。 他には、ここと同じような部屋が一つと、6人程度なら入れる部屋が2つほどあった。 後者は、複数人で依頼を受けた場合の打ち合わせや、報酬の配分交渉に使われる事が多いようだ。

そのまま、中で打ち上げの宴会に発展する事も多いようだが。

ただしこの部屋は、他の部屋とは全く違う点が一つあった。 窓が何処にもない。 おそらく、外からの盗み聞きを防ぐためだろう。 密談を考慮して作られているのが覗える。

レイギンは部屋の中央まで歩いて行くと、天井から下げられている掛け金にランプを吊るした。 ゆらゆらと揺れる明かりが、部屋全体を照らし出す。

「魔法の明かりでも出せりゃ、もう少し快適なんだろうけどね」

レイギンはイスの一つに腰掛けると、ヒルデにも腰掛けるように促した。 ヒルデは軽く頭を下げると、促された通りにイスに腰を下ろす。

「余計な金をかけさせてくれる」

レイギンが不満そうにそう言うと、ヒルデは申し訳なさそうな顔をした。

「この部屋の使用料は、こちらが負担しましょう」

そこまで言って、ヒルデは何かに気付いたらしい。 不思議そうな表情になる。

「レイギン様は、この宿に部屋を取っていらっしゃるのでしょう? そこでもかまわなかったのですが…」
「本気で言ってるのか?」

ヒルデは、彼が何故そんな風に言うのか判らないようだった。 レイギンは呆れた口調で言葉を続ける。

「そんな事をしてみろ。 真昼間から女を連れ込んだと勘違いされかねない」
「私は、それでもかまいませんよ?」
「あんたと違って、俺はずっとこの宿にいるんだぞ…」

レイギンはふと思った。 ヒルデがここに来たのは、チュルクをはじめとする『光の道標』亭の者たちにあらぬ憶測をさせ、波風を立たせる目的もあるのかもしれない。

(だとすると、いやらしい手を使ってきやがる)

しかし、考えようによっては、まだ強硬な手段を取るつもりではないとも取れる。

「それはそうと、いつまでその話し方なんだ? 疲れないか?」
「お気に召しませんか?」

ヒルデはレイギンの反応を覗っている。
彼は、軽くため息をついた。

「あんたがそれでいいなら、俺は別にかまわないがね」
「お気遣い、ありがとうございます」

ヒルデは軽く頭を下げた。 昨日の彼女と同一人物とは、とても思えなかった。 服装や髪型は昨日と同じだけに、違和感はなおさら強い。

(まぁ、隠密の類はそんなもんか)

時と場合によって、物腰や話し方を変えているのだろう。

では、昨日のあれは、一体何だったのか…。

その疑問がレイギンの頭をよぎったが、この場では考えない事にした。

「それはそうと、俺に何を頼みたいんだ?」

依頼についての話を、レイギンは切り出す。 ヒルデはベストの胸元に手を入れると、一通の封書を取り出した。 それを、レイギンに向って差し出す。

「ナイフでも突きつけられるかと思ったよ」
「そのつもりならば、ここに参るような事はしておりませんよ」

ヒルデはおかしそうに微笑む。 少なくとも、今日はやりあうつもりはないらしい。

レイギンは差し出された封書を受け取ると、封印に目を落とす。 紅の封蝋に施されれた封印の中央には、意匠化された扉があった。 気のせいか、閂の部分が強調されているように思える。

(「扉を開かせない」って所か。 こんな印章を使いそうな組織と言えば…)

何かを守護するための組織と取れる。 ただし、武器や防具の図柄が全くない所を見ると、おおっぴらな戦闘を主とする組織ではないのだろう。 となると、残る可能性は限られてくる。

(公にはなっていないが、きちんとした公的組織なのか?)

レイギンがそんな事を考えていた時、突然部屋の扉が開いた。

「紅茶をお持ちしましたよ!」

にこにこしながら、チュルクが立っていた。 言葉通り、ポットとティーカップが乗ったトレーを右手に載せている。
ヒルデが一瞬、不愉快そうな表情をチュルクに向けた。

(来ない方がおかしいか…)

レイギンは、左手を顔に当てた。


部屋に入ってきたチュルクは、腰を曲げてポットをテーブルの上に置いた。 彼女は先ずヒルデに前に、次にレイギンの前に空のティーカップを置く。 その時、彼女はちらりとレイギンの方を見た。

明らかに、レイギンが手にした封書を見ていた。

チュルクはトレーを胸に抱くと、にこにことした笑いを浮かべる。

「わたしはここにおりますから、御用がおありでしたら、何なりとお申し付け下さい!」

顔は笑っているが、目は笑っていない。

「でしたら、お戻りになって下さい」

ヒルデもまた、にこにこしながら言う。 こちらもやはり、目が笑っていない。

どちらの主張にも肩入れ出来ない話になるのは判っていたので、レイギンは黙っておく事にした。 出来ればチュルクにこうして欲しくはなかったのだが、来てしまったものはどうしようもない。

「お客様、うちは初めてですか?」

チュルクは笑顔を崩さない。

「ええ。 今日初めて覗いました」

ヒルデもまた、にこにこしながら返す。

「そうですか…」

チュルクがすっ、と息を吸い込む。 「来る!」とレイギンは思った。

「なら教えてあげる!」

チュルクは左手を腰に当てると、右手をテーブルの上に突いた。 ティーポットやカップに気を使ったらしく、思い切り突いた訳ではなかったらしい。 それでも、ティーポットがかちゃりと音を立てた。 ランプの炎が揺れ、光と影のコントラストが、得体の知れない生き物のように大きく動く。

「こういう事は、困るんだよ!」

彼女は怒りに満ちた表情に変わっていた。 威嚇の意図もあるのかもしれないが、本気で怒っているようにしか思えない。

「困るとは?」
「どこの誰かは存じ上げないけど、冒険者ギルドの規則を知った上でこうしてるのかな!?」

チュルクはヒルデを睨みつけた。

「きちんと上に話を通した上で、こうしてる!?」

ヒルデは唖然とした表情をしていた。 まさかこんな話になるとは、思ってもみなかったらしい。

「ギルドの規則とは…」
「依頼については、必ず冒険者ギルドが仲介する事! 直接依頼をされちゃ困るんだよ!」

チュルクの言葉に、ヒルデの表情が見下したようなものに変わった。

「中抜きがしたいのと仰るのですか?」
「ち〜が〜う〜!」

チュルクは背筋を伸ばすと、呆れた表情になってヒルデを見下ろした。テーブルの上に突いていた右手を腰に当てる。

「ホントになんにも判ってないんだね? いい? 何のためにギルドが仲介をするか判ってる? 依頼を受けたギルドは、請負人を募集すると同時に、統治府に依頼内容の報告を行う義務があるんだよ。 反乱やテロが起こっちゃいけないって理由で、わたしたち冒険者ギルドとフラード中央政府との間にある取り決めだよ!」

彼女は一旦言葉を切り、軽く息を吸い込んだ後、続けた。

「ここはリーライナ自治領だから、神殿からの依頼の場合は必要ないよ。 でも、あなたどう見ても、神殿の人じゃないよね!? うちの中で依頼をしたんじゃないなら、知らなかったで済むよ? でも、うちの中でやられたら、うちの監督不行き届きって事になるんだよ! うちを潰すつもり!?」

ヒルデはぽかんとしていた。 チュルクは完全に、冒険者ギルド側の人間として話をしている。 彼女の話は事実であり、彼女はその義務を遵守する必要があるのだ。 非があるとするなら、ヒルデの方にある。

チュルクは今度は、非難がましい視線をレイギンに向けた。

「レイギンもレイギンだよ!」
「犬猫探すくらいの依頼かもしれなかったからな。 それなら、直に受けても問題ないと思ったんだがね」
「言い訳なんか聞かないよ!」

チュルクは、レイギンが持った封書を見る。

「封印までしてるんだから、そんな訳ないじゃない!」

彼女は、レイギンの手から封書をひったくる。 封印に目を落としたチュルクは、小さく「あっ」と声を上げた。

「これ…」
「ご存知ですか?」
「初めて見たよ…」

彼女は封印をじっと見つめた後、半信半疑の表情でヒルデの方を見た。

「本物?」
「ええ。 あなたが私を信用してくれればの話ですけどね」

チュルクは再び封印に目を落とすと、難しい表情になって黙っていた。
長い沈黙の後、彼女は探るような表情で口を開く。

「上には話が通ってるって、思っていいのかな?」
「ご想像にお任せします」

チュルクは再び黙り込む。 封書を見つめたまま、右手で右の三つ編みを弄りはじめた。

「何かあった時は、責任は全部そっちが取ってくれる?」
「少なくともこちらの組織は、知らぬ存ぜぬで通したりはしませんよ」
「信用していい?」
「して頂かなければ、話が進みません」

ヒルデは困った顔になっていた。 おそらくレイギンに依頼をするまでが彼女の任務なのだろうが、予想外のところで躓いてしまったという事だろう。 内心、早く話を進めてしまいたいと思っているに違いない。

チュルクはずっと三つ編みを弄っていたが、ぽつりと言った。

「依頼内容、見ていい?」
「それは…」

ヒルデが言い澱む。 封書に目を落としたまま、チュルクは続けた。

「内容を見ないと、信用していいかどうか判んないからね。 秘密は絶対に守るよ」

ヒルデは困惑していた。 もしかすると、彼女にそこまでの裁量権はないのかもしれない。 冒険者ギルドの規則を考慮していなかった時点で、このような事態は全く考慮していなかったのだろう。

彼女は逡巡した後、目を瞑ってため息をついた。

「仕方…ないですね…」
「ありがと! 秘密は絶対に守るから!」
「お願いしますよ」

彼女は再びため息をつく。

チュルクが神妙な表情をしながら、封蝋を剥がした。 中には二つに折りたたまれた紙が入っている。

壊れ物を扱うように、チュルクは依頼書を取り出した。


依頼書の内容に目を通したチュルクは、ちらりとレイギンの方を見た。 その後、今度はヒルデの方を見る。

チュルクは、無言でレイギンに依頼書を差し出した。 レイギンも無言で受け取り、目を通す。
彼の様子を一瞥した後、チュルクはヒルデに尋ねた。

「なんでレイギンなの?」

彼女は怪訝そうな表情をしている。 レイギンは、彼女の疑問は尤もだと思った。

地方領デルケンに叛意の疑いあり。 フラード中央協議会に承諾なく兵を集めている動きがある。 事の真偽について調査し、可能であれば反乱を未然に防げ。

要約すると、そんな内容だった。

デルケンは国境の地で、川一本隔てた向こう側はシャールになる。 レイギン自身、フラードに流れて来た時に通過した覚えがあった。 もし本当に反乱を起こそうとしているのなら、位置を考えると、シャールに与しようとしていると考えるのが妥当だろう。 あるいは、両国と均衡を取り、独立国となろうとしているのか。

(一つの国として成り立つ程、大きくはなかったと思うが…)

そもそも、デルケンはフラードの一部であるリーライナ自治領の、そのまた一部だ。 特産品も聞いた事がない。 あるにはあるのかもしれないが、他国から重要視される程のものではないだろう。

そもそも、独立してどうしようと言うのか?

その点がさっぱり判らない事を考えると、そう考えない方が良いかもしれない。

(反乱の調査に、解決か。 冒険者に頼む仕事じゃないな…いや、冒険者だからか?)

レイギンは、依頼そのものについて考えてみた。 国境付近で起きたトラブルについては、冒険者が解決のために動き回る事に、暗黙の了解がある。 その点を勘定に入れると、隠密の技に長けたレイギンに白羽の矢が立ったとも考えられる。

あくまで、素直に解釈すればの話だが。

レイギンを反乱分子に仕立て上げ、その理由で始末するつもりとも考えられた。 デルケンの場所を考えると、もし反乱を起こそうとしていた場合、シャールの支援があると考えた方がいい。

(シャールの新政権は、今の所国内拡充路線だろう。 となると、前政権の一派…地下に潜った反体制派か?)

彼がそこまで考えた時、チュルクとヒルデが、黙ってレイギンの方を見ているのに気付いた。

「どうした、二人とも?」
「真剣に考えてるなぁ、って」
「レイギン様の考えを邪魔してはならないと思いましたので、黙っておりました」

ヒルデはそこまで言うと、おずおずと尋ねた。

「何を考えておられたのですか?」
「反乱だとした場合、最終的な目的はなんなのか? シャールの関与があるのかないのか? もしあるのなら、現政権と反体制派のどちらが関与しているのか? まぁ、そんな所だ」
「そこまで考えて下さるという事は、請け負って下さると考えてよろしいですか?」

レイギンは即答せず、少し考えてみる。 難易度の高い仕事になるだろうし、アルフィスの事もある。 故意にそうしているのか、依頼内容には具体性のない箇所が多い。

「条件次第だな」
「例えば?」
「『可能であれば解決しろ』とあるが、ここは個人の解釈によって幅があるな。 叛意の有無さえ見定めれば、そこで仕事を終わりにしていいとも、解決が可能な場合は絶対に解決しなきゃならないとも、どっちとも取れる」
「そういった点は、レイギン様の判断にお任せします」
「いいのかそんな事で…」

レイギンは呆れたが、ヒルデはくすりと笑った。

「私自身の考えではありませんが、『あまりに厳密に詰めすぎると、些細な事で破綻を来たしやすくなる』のだそうです」
「各々の勝手解釈も、破綻の原因になるぞ?」
「レイギン様を信頼されているのではないのでしょうか?」
「信頼されるほど、俺は有名なのかね。 まあいい」

レイギンはちらりと依頼書に目を落とすと、それを畳んで指の間に挟んだ。

「俺一人に対する依頼なのか?」
「人員が必要な場合は、選定および人数はレイギン様にお任せします。 ただし、可能な限り少人数でお願いします。 秘密を厳守出来る事が絶対条件です」
「あたしが手伝おうか?」

突然、チュルクが口を挟んできた。 ヒルデは、嫌な顔をして彼女の方を見る。 チュルクは、少しムッとした表情になった。 そんな彼女の様子を見て、ヒルデが呆れたような表情になる。

「遊びに行くのではないのですよ?」
「レイギンが、どんな方法で探るつもりかわかんないけど、何人かでやるのなら、連絡役とか要るんじゃないかな?」
「あなたが連絡役をしようと言うのですか? あなたが考えているほど…」
「これ、見える?」

ヒルデの言葉を遮り、チュルクが自分の左胸を指差した。 伝書鳩を意匠化した、銀色の胸章が光っている。
ヒルデは最初、怪訝そうにその胸章を見たが、驚愕の表情を浮かべてチュルクの顔を見た。

「通信士だったのですか!?」
「そうだよ。 二級通信士。 5人くらいまでなら大丈夫かな?」
「あなたが通信士である事を疑う訳ではないのですが、それならなおの事、お断りしなければなりません」
「どうして?」
「通信に使用する機材の私的所有は禁止されている上、ここではリーライナ神殿が機材を管理していましたよね」
「あ…」

チュルクは間の抜けた顔になる。 彼女は確かに通信士としての能力を持っているが、何の道具もなしにその能力を発揮する事は出来ない。 各自が通信のために使用する護符と、通信士が通信の中継・取りまとめをするために使用する、特別な水晶球が必要だった。 それらの個人所有は禁じられており、リーライナ自治領ではリーライナ神殿が管理・貸し出しを行っている。 これもまた、反乱やテロに使用される事を防ぐための制度だ。

「可能な限り、事を大きくしたくありません。 レイギン様への依頼となったのも、その理由からです」

チュルクが通信士としてこの依頼に参加するなら、リーライナ神殿から道具を借りなければならない。 当然、神殿は正当な理由なしには道具を貸してはくれない。

「それに、神殿内に反乱の協力者がいないとは限りません。 誤解のないように申しておきますが、神殿そのものが反乱に協力しているとの見方をしているわけではありません」

正規のルートを通さずレイギンに直接依頼をして来たのは、その理由が大きいのかもしれなかった。

「あんたの所の組織は、通信士のための道具を持っていないのか?」
「通信士の素養を持っている人間は、そう簡単に見つかるものではありません。 私自身、今までは話に聞いた事しかありませんでした。 それに、通信士用の道具を所持する権限は、自治領の統治府以上でなければ持っていません」
「意外と不便なもんなんだな」

フラードは対外的には一つの国と扱われているが、実際は5つの自治領それぞれが一つの国のようなものだ。 権限については、制約が多いのかもしれない。

「普通にギルドを通せるような依頼なら、不便じゃないんだけどね」

チュルクは苦笑いをした。 完全に納得が行っているわけではないようだが、この依頼に参加するのは諦めたようだ。

「まぁ、俺の方である程度好き勝手出来るのはありがたいんだが…」

指の間に挟んだ依頼書を再び開き、レイギンはヒルデに訊く。

「報酬の方はどうなんだ?」
「契約料として、こちらをご用意しております」

ヒルデはどこからともなく小箱を取り出し、テーブルの上に置いた。 レイギンは依頼書をテーブルの上に置くと、小箱を開いてみる。

中央に大粒のエメラルドが据えられた指輪が入っていた。 台座には、小さな透明の宝石が無数に埋め込まれている。 指輪自体も銀製のようだった。 正確な価値はレイギンには判らないが、相当なもののように思える。 報酬としては、かなりの額に匹敵するだろう。

しかしレイギンは、嫌そうな顔になっていた。

彼の表情を見て、ヒルデがくすりと笑う。

「これではご不満ですか?」
「いや…しかしな…」

レイギンは顎に手を当てた。 ヒルデには、彼が何を考えているか判らない。
少し沈黙した後、レイギンは口を開いた。

「俺一人に依頼するつもりだったろう?」

彼の言葉は当たっている。 確かにヒルデは、当初はレイギン一人に依頼をするつもりだった。 しかし、彼以外の者を参加させていいかどうかを訊いて来たのは、彼の方だ。 一人当たりの報酬が目減りするのは、彼自身の判断の結果と言える。 不満に感じているとすれば、何が不満なのか判らない。

ヒルデは問いには答えず、黙ってレイギンの方を見た。 どうやら彼は、不満に感じているというより、困っているらしい。

しばらくして、ようやくレイギンが口を開いた。

「これだと、売らない事には、分けられないな」

ヒルデは、沈黙する以外になかった。


結局、レイギンは依頼を受ける事にした。 その事をヒルデに伝えると、彼女はにっこりと微笑む。

「ありがとうございます。 今日は、失敗を責められないで済みそうです」

苦笑した所を見ると、どうやら昨日はこっぴどく責められたらしい。 少し同情したレイギンだったが、彼女自身の失敗だと思いなおし、特に言葉をかけないでおく事にした。
ヒルデは、テーブルの上に純銀貨を一枚置いた。 最初に言っていた通り、この部屋の使用料のつもりのようだ。

「それはそうと、依頼の成否はいつ、どこで、誰に伝えればいい?」
「私が定期的にこの店に参りましょう」

そう言うと、彼女は一礼してにこりと笑う。

「良い結果となる事を祈っております」

最後にそう言うと、ヒルデは部屋を出て行った。 後には、レイギンとチュルクの二人が残される。 チュルクは、さっきから熱心に指輪を眺め回していた。

「これ、本物のエメラルドだね。 色が深いし、ここで見た限りだと傷も見当たらない。 この大きさで中に割れ目もないから、う〜ん…5000くらいかな? 周りのちっちゃいのは、トパーズだね。 台座は…銀と少量の金の合金かな? 美術的な価値も考慮に入れて…7000って所だと思うよ」
「契約料だけでそれだけとは、気前がいいもんだ」
「お仕事の内容が内容だもんね…」

チュルクはそのまま沈黙する。 しばらくして、彼女は不思議そう表情になってレイギンの方を見た。

「ところで、なんでこんな依頼が直に来たの?」
「俺にもよく判らなくてね」
「ふ〜ん…」

チュルクは腑に落ちないようだったが、だんだんと心配そうな表情に変わって行く。

「気をつけてよ。 レイギンは、シャールの間者なんかと間違われてもおかしくないんだから」
「もう勘違いされてるのかもしれないがね」

レイギンはため息をついた。 結局の所、彼に依頼が来たのはそれが理由なのかもしれない。 シャールの間者であれば、反乱に与する動きをすると思われているのだろう。

レイギンは、再びため息をついた。

「シャールから来たって自分で言う間者が、何処にいるのかね」
「そうだよねぇ。 それに、レイギンは間者じゃないんだし。 もっとひどいよね」

レイギンはチュルクの方を一瞥する。 彼女のレイギンへの認識は、並みの者なら簡単に受け入れられる事ではない。 しかし、彼女はそれを受け入れた上で、普通にレイギンと接している。

「ずっとそう思っているのか?」
「あの時、否定しなかったよね?」
「まぁな」

この依頼を一人で行うべきか、それとも誰かと組むのか考えたかった事もあり、レイギンはそのまま沈黙した。 チュルクは、何も言わず彼の方を見ている。
しばらくして、そろそろレイギンの考えがまとまったと思ったのか、チュルクが尋ねてきた。

「レイギン一人でやるのかな? それとも、誰かと組むの?」
「誰かと組むのなら、姉御に手伝ってもらうのが良さそうだが…最近見ないな。 どうしたんだ?」
「姉御はね…」

気の毒そうな表情を浮かべ、チュルクは言い澱む。 どうやら、良くない事が起こっているらしい。 レイギンはそう思った。 そう言えば、レルトの村の一件を受けた時は、浮気調査をしていると聞いた。 まだ終わっていないのかもしれない。

「浮気調査、大変な事になっちゃってるみたいだよ。 姉御自身が浮気相手と勘違いされちゃったらしくて、二進も三進も行かなくなっちゃったみたい。 疑われてるせいで、お屋敷から出してもらえないみたいなんだ」
「泥沼の見本みたいな事になってるな…」

チュルクが気の毒そうな表情をした理由が、嫌と言うほど判った。 そんな状態では、いつ解放されるか判ったものではない。 早く事態が決着して、解放される事を祈るしかなった。

レイギンは候補から姉御を消した。 だとすると誰がいいだろう? ダルナスに頼むと、むしろ事態をややこしくしてしまいそうだ。 ティムは…確かリュートが弾けたから、吟遊詩人を装えそうな気がする。
とはいえ、やはり自分一人でやってしまうのが楽な事は楽だ。 領主が集めているという兵の中にどうにかして潜り込めば、意外と簡単に済んでしまう気もする。
しかし、潜入が長期に渡る事になったり、姉御のように屋敷から出してもらえなくなってしまった場合は少し困る。 ヒルデが定期的にこの宿に来ると言っていたから、そうなってしまった時の連絡役くらいは欲しい。 チュルクが通信士として参加してくれればいいのだが、既に無理と判っている。

(ティムなら、アルフィスが使った遠話っていうのを使えそうだな)

レイギンは少し考えてみて、ティムに助力を頼んでみる事にした。

「ティムに頼むか」
「さっきレイギン達と入れ違いで、食堂に下りて来てたよ。 もしいたら、呼んで来ようか?」
「ああ、頼む」

軽く返事をして、チュルクが扉を開ける。

「あ…」

不意を突かれた表情をしたアルフィスが、扉の前に立っていた。


チュルクはティムを呼びに行ってしまった。 部屋の前のアルフィスは、どうしていいか判らないといった表情で立っている。

少しして、彼女はおずおずと口を開いた。

「あ、あの…盗み聞きしようとしていたとか、そういう訳じゃないんです。 チュルクさんがずっとカウンターにいないので、お店が大丈夫か心配になって…様子を見に来て見たら…」

彼女は俯き加減で、ちらちらとレイギンの方を覗っている。
レイギンは、軽くため息をついた。

「話したい事があるのなら、とりあえず入れ」

レイギンは出来るだけ非難がましく取られないよう気をつけて言ったつもりだが、アルフィスがどう取ったかは判らない。
彼女はおずおずと部屋に入って来ると、もじもじとした様子でレイギンの方を見た。

「とりあえず、座ったらどうだ?」

放っておくとそのまま黙って立っていそうだったので、レイギンはアルフィスに座るよう促す。
アルフィスは、躊躇いがちにレイギンの向かいに腰を下ろした。

「あの…」
「怒っている訳じゃあないぞ。 話したい事があるのなら、話したらいい」
「レイギンさんが、あの女性とどういった関係なのか知りませんし、どうされるおつもりなのかはわかりませんが」

アルフィスはずっと、躊躇いがちな様子を続けている。 どうやら、何か勘違いをしているらしい。
彼女はそこで言葉を切り、少し口をもごもごさせた後、レイギンに尋ねた。

「レイギンさん、約束して下さいましたよね」

アルフィスはすがるような表情になっている。 彼女はまた、少し口をもごもごさせた。

「わたしを助けてくれるって。 わたしを見捨てたりはしないって」

思いつめたような表情だった。

「ああ」

レイギンは即座に答えるが、アルフィスは彼の言葉を信じたようには見えない。

「今でも、そう思って下さっているのですか?」

レイギンの予想を裏付けるように、彼女はそう訊いて来た。

「当たり前だ」

レイギンはまた、即座に答える。 アルフィスは、不安そうな表情でレイギンから目を逸らした。

「でも…」

レイギンはため息をついた。 このまま彼女に続けさせれば、ずっと同じ事の繰り返しになりそうだ。

「何をどう勘違いしているか知らないが」

一旦言葉を切って、彼女の顔を見ようとする。 しかし、彼女は目を逸らしたままだった。 レイギンの方を見ようとしない。

「あの女は、おそらく第二王妃の手の者だぞ」
「えっ…!?」

アルフィスが急に、レイギンの方を向く。 彼女は間の抜けた表情になってしまっていた。
レイギンはどう説明すべきか考えていたが、かいつまんで話すとあらぬ誤解を生んでしまいそうな気がした。 いきさつを最初から説明した方がいいのかもしれないが、その場合はそれなりに長くなってしまうだろう。
アルフィスはアルフィスで、何をどうレイギンに尋ねたらいいか判らないらしい。 二人の間に沈黙が続く。

レイギンが話を切り出せないままいると、突然部屋の扉が開いた。 チュルクと、その後ろにティムがいる。
チュルクは不可解そうに二人の様子を眺めていたが、一旦ティムの方を振り向いた後、言った。

「3人だと、ここじゃ狭いよね? ランプの油ももったいないし…レイギンの部屋ででも話したら?」

レイギンは、黙って頷いた。


「だいたいの話は、こんなところだ」

依頼内容を要約し、レイギンはそう言って締めくくる。 ティムは、興味深げな表情で黙っていた。 何故か着いて来てしまったアルフィスも、同じように黙ったままレイギンの方を見ている。 彼女の表情は不安に満ちていた。

(まったく…)

あの場では、アルフィスに話に加わらないように強く言うのも不自然と判断し、レイギンは彼女が着いてくるのを拒まなかった。 しかし、改めて考えてみると、やはり彼女をこの依頼に関わらせない方がよい気がした。 何かあった時に、守りきれない可能性が高すぎる。

しばらくの間誰も口を開かなかったが、ようやくティムが口を開いた。

「それで〜」

彼は、相変わらず興味深げな表情のままだ。

「レイギンは僕に何をして欲しいんだい〜?」

そこまで言って、ティムはアルフィスの方を見た。

「アルフィスを守ればいいのかな〜?」

彼の言葉に、レイギンは渋面になる。

「まだアルフィスを連れて行くと決まった訳じゃない。 この依頼は、アルフィスには難易度が高すぎるように思える」

アルフィスが泣きそうな表情になってレイギンの方を見たが、彼は気付かなかったふりをした。
傍らで二人の様子を見ていたティムが、不思議そうな表情をする。

「向いてないって言うなら、僕もアルフィスとあまり変わらないと思うけどな〜。 デルケンを丸ごと吹っ飛ばして欲しいって言うのなら、出来ない事はないけどね〜」
「ティム…」

少し顔を引きつらせてレイギンが嗜めると、ティムは悪びれる様子もなく笑った。

「冗談だよ〜! いくら僕でも、そんな事は出来ないよ〜。 領主様のお屋敷を吹っ飛ばすくらいなら出来るけど〜」
「それも冗談だろう?」
「そうだよ〜」

レイギンは、さすがにため息をついた。

「ティムの冗談は物騒すぎる」
「依頼の内容が内容だからね〜。 レイギンが僕に何をして欲しいのか、よく判らないんだ〜」
「連絡役を頼めないかと思ってね」
「連絡役〜?」

ティムが眉をひそめる。 レイギンは、彼を真正面から見て口を開いた。

「遠話とかいう魔法があるんだろう? ティムは使えるんじゃないのか?」

ティムの表情が、とたんに険しくなった。 彼は暫くの間黙っていたが、ちらりとアルフィスの方を見る。 アルフィスは、ティムのそんな様子にすら気付いていないらしく、ずっとレイギンの方を見ていた。

「遠話かぁ〜。 使えない事はないね〜。 でも、う〜ん…」

ティムは今度は、腕を組んで俯いてしまった。 どうやら、簡単な話ではないらしい。

(アルフィスは簡単に遠話を使っていたように見えたが、そうでもないのか?)

レイギンには、ティムが渋っている理由がそれ以外に考えられなかった。 ティムは魔術に造詣が深いため、アルフィスよりも簡単に遠話を使えると思っていたが、そういう訳でもないらしい。 適性の違いも考えられる。
なんにせよ、魔術に詳しくない自分があれこれ考えても仕方ない、レイギンがそう思ってティムの言葉を待っていると、やっとの事で彼が口を開いた。

「遠話は地味な魔法だけど、かなり高度な部類に入るよ〜」

そこでティムは一旦言葉を切り、まじまじとレイギンの方を見る。

「遠話なんて、よく知ってたね〜」

ティムはまた、ちらりとアルフィスの方を見る。

「アルフィスが使えるって事はないよね〜?」

俎上に上がったアルフィスが、びくりと体を震わせる。 彼女の様子を見た限り、彼女が遠話を使えるせいでそんな仕草をしてしまった訳ではなく、自分の名前が突然出てきて驚いただけのようだ。

「まさか〜、そんな事はないか〜」

はははと軽く笑い、ティムが再びレイギンの方を向く。レイギンは、遠話の話になってすぐ、彼がアルフィスの方を見た理由を理解した。

「それはそうと、どうして難しいんだ? 単純に難易度が高い魔法なのか?」
「めんどくさいし〜、今回みたいなケースに遠話を使うのは危険なんだよ〜」

ティムは難しい表情になっている。 レイギンは、彼が説明してくれるのを黙って待った。

「まず、遠話の仕組みからなんだけどね〜。 相手が何処にいるか判ってる時は、まだいいんだ〜。 でも、相手が何処にいるか判らない時は、最初に相手の位置を探さなきゃいけないでしょ〜?」
「そういうものなのか?」
「うん〜。 近ければまだいいんだけど、相手がいる位置が遠ければ遠いほど、広い範囲を探さないといけなくなるよね〜」
「確かにそうだな…」

レイギンはふと、アルフィスがエルフェと同調した時の事を思い出した。 確か侏儒の住処の内部を探るために、感覚の範囲を拡げてもらった時だ。 彼女は一体、どれだけ広い範囲に感覚を広げたのだろう。 侏儒の住処からエルフェのいた場所までの距離を考えると、生半可な広さではない。 彼女が意図してそこまで範囲を拡げたのかどうかは判らないが、昏倒してしまったのも納得できた。
そこまで考えて、レイギンは考えを戻した。 今聞くべきは、ティムの話の方だ。
ティムは、レイギンが別の事を考えていた事を知ってか知らずか、説明を続ける。

「通信士なら、道具を使ってそこをどうにかしてるけど〜…それに、さっきも言ったけど、こういう依頼だと遠話は危険なんだよね〜」
「危険?」

意外な言葉が出てきたため、レイギンは怪訝そうな表情をする。 ティムは、一呼吸置いて口を開いた。

「遠話は難しい魔法だけど〜、遠話を使ってる事を知るのは、そう難しい事じゃないんだ〜」
「他の術者に読み取られる恐れがあるって事か?」
「それは難しいけれど、遠話を使ってるって事が判っちゃったら、それ自体が危険だよね〜?」
「その通りだな」
「遠話を使うのが得意な人なら、そこまで考えてあれこれ手を打つけど〜、僕は得意じゃないんだ〜」
「そうか…」

ティムの言葉に、レイギンは腕を組む。 便利な魔法だと思っていたが、色々と制約が厳しいらしい。 そうなると、ティムに連絡役を頼むのは荷が重い事になってしまう。

「でもね〜」

レイギンの考えに気付いたのか、ティムが再び口を開いた。

「すごく距離が近いとか〜、相手のいる場所がかなりはっきり判ってるなら、本当に少しの間だけとか〜、そういう場合ならなんとかなると思うよ〜」
「ふむ…」

それが出来るだけでも、随分とありがたい。 何かあった時のために、やはりティムには協力してもらった方が良いように思える。

「それはそうと〜、アルフィスはどうするのかな〜? 実地訓練中でしょ〜?」
「そこだ」

レイギンは再び難しい顔をする。 本当はアルフィスを連れて行く気は全くないのだが、検討くらいはしたと思わせる方がいいだろう。 彼女を説得するにしても、その方がやりやすいかもしれない。

「レイギンは、どういう方法で調べるつもりなの〜?」
「領主が集めている兵の中に、潜入してみるつもりでいる」
「僕は何かあった時の連絡役で〜、アルフィスが来るならこっちだね〜」
「あの…」

今まで黙っていたアルフィスが、急に口を挟む。 レイギンとティムは共に彼女の方を向いた。

「ティムさんとレイギンさんが遠話を使っている時に、わたしが何か話しているというのはどうでしょうか?」

必死な表情から察するに、考えに考えてなんとかひねり出した案らしい。 しかし、レイギンもティムも、彼女の言わんとする事が理解できなかった。

「なんとなく、アルフィスの言いたい事は判るんだが…」
「レイギンはすごいね〜。 僕には全然わからないよ〜」
「そんな…」

彼女としては、これ以外に何も考え付かなかったのだろう、絶望的な表情になっている。

(しょうがないな、全く)

レイギンはため息をつくと、アルフィスの案をきちんと精査してみる事にした。

「アルフィス、悪いがさっきのじゃあ良く判らない。 長くなってもかまわないから、きちんと説明してくれ」
「は、はい!」

希望が見えたと思ったのか、アルフィスの表情がぱっと明るくなった。 元々、相手にされる事を期待していなかったのかもしれない。

「今までのティムさんの説明を聞いていると、遠話でのやりとりは、レイギンさんとティムさんがすごく近くにいる時しか出来ないと思います」
「そうだな」
「でも、その時にティムさんがレイギンさんの方に意識を集中させていては、周りからは不自然に見えるのではないでしょうか? 魔術を使える人からは、遠話を使っている事を悟られてしまうかもしれません」
「間違った事は言ってないね〜」

ティムはそこまで言って、アルフィスの意図に気付いたらしい。 ぽんと手を打つ。

「あ〜! アルフィスの言いたい事が判ったよ〜!」
「わたしがしつこくティムさんに話しかけたり、くだらない話ばかりして、ティムさんがうんざりして別の方向に注意を向けていると思わせるように装う、というのはどうでしょうか?」
「ふむ」

レイギンはあごに手を当て、そのまま沈黙した。 案外、リスク軽減のためには悪くないかもしれない。 他にもいくつか偽装手段を加えれば、連絡の危険をかなり押さえる事が出来る可能性がある。

しかし、そのためにはある前提が必要だった。

「ティムは、それでいいのか?」
「アルフィスを連れて行ってもいいかって事かな〜?」
「ああ」
「いいと思うよ〜」
「任せて大丈夫か?」

深刻な顔で訊くレイギンに、ティムは怪訝そうな表情になる。

「ん〜? アルフィスがくだらない話をずっとしてても、それに耐えろって事かな〜?」
「そっちじゃない…」

レイギンは、半ば呆れ顔になって続ける。

「なにしろ、依頼内容が依頼内容だ。 ティム自身、それに、アルフィスの身を守りきれるか?」
「なんだ〜! そんな事か〜!」

間延びした声で言うと、ティムは笑顔で言い切った。

「大丈夫だよ〜! 心配しないで〜!」

全く緊張感のない表情で、ティムは続ける。

「デルケンを吹っ飛ばしてでも、アルフィスは守ってみせるよ〜!」
「だから、その物騒な考え方はやめろ…」

レイギンはため息をついた。 とりあえず、ティムにアルフィスを守る意思があるという前提は成り立ったが、あくまで前提が成立しただけだ。 今度は、アルフィス自身が上手くやれるかという問題になってくる。

(あまり頭が柔らかそうでもないが…大丈夫か?)

そんな風に思いながら、レイギンはアルフィスの方をしげしげと見た。

(そもそも、アルフィスはこの仕事に参加したいのか?)

今この場にいるという事は、素直に取れば参加したいという事になる。 しかし、その場の成り行きで着いて来てしまっただけとも限らない。 とはいえ、彼女が仕事に参加する意義があると思わせようとした発言をしたところを見ると、参加したいと見ていいだろう。

(にしても、どうしてだ?)

レイギンは、彼女は少なくとも頭は悪くないと思っている。 この仕事が危険な事は、きちんと理解している筈だ。

(いや、そうとも限らないか)

アルフィスが経験不足なのは間違いない。 危険だと判断出来るほど、状況を分析できていないのかもしれない。 軽く考えすぎている可能性もある。

そんな事を考えながら、レイギンはずっとアルフィスの方を眺めていた。 その間一言も言葉を発しなかったためか、彼女はだんだん気まずそうな表情になって行き、もじもじし始める。

「レイギンさん…わたしに、何か…」

ついに耐え切れなくなったのか、アルフィスが口を開いた。 それでもなお、レイギンは黙ったままでいた。

(あまり良くはないな)

レイギンはそう感じた。 この程度で焦れてしまうようでは、彼女に任せようとしている役割を果たし切るのは難しいだろう。 彼女には、本来のものとは別の人格を演じてもらわなければならない。 少々の事でペースを崩してもらっては困る。

「レイギンさん…何かあるのでしたら、仰ってくださいよ!」

さらに沈黙を続けるレイギンに、アルフィスは切実な表情でそう訴えてくる。 ティムは、レイギンの沈黙に意図があると考えているのか、それとも単に成り行きを覗っているのか、レイギンと同じく沈黙したままだ。 興味深げな表情をしているところを見ると、後者なのかもしれない。

(アルフィスがここに残るのと、仕事に参加してデルケンに行くのと、どちらが危険が大きい?)

アルフィスの訴えを無視し、レイギンは考えてみる。 彼女の安全を考えれば、信用できる護衛を着けて、ここかリーライナ神殿に待機してもらうのが最善だろう。 しかし、フラード王の事も考えると、話がややこしくなってくる。神殿は少し危険だった。 カルハナの言葉を信じる限り、教団は彼女を王の手に渡す気はないらしい。 ただしそれは、教団が一枚岩であればの話だ。 そうでない可能性もある以上、全面的に信頼は出来ない。
この宿に待機してもらう場合も、やはり危険がある。 ヒルデが定期的に様子を覗いに来ると言っていたが、彼女はほぼ間違いなく第二王妃の手の者だろう。 彼女自身が手を下すかどうかは別として、隙を突いてアルフィスを亡き者にしようと企てる恐れがあった。 もっともこちらは、アルフィスがずっと『光の道標』の中にいれば、簡単に出来る事ではない。 ただし、あまり一所に留まると、やはりフラード王に居場所を悟られる危険が出てくる。

そこまで考えて、レイギンははっとした。

(俺は、何を考えている!?)

カルハナを通してリーライナ教団から受けた依頼は、アルフィスを第二王妃の手の者から守り、フラード王に居場所を悟られないようにする事だ。 それを完璧に達成しようとするからこそ、話がややこしくなる。

(一番重視しなきゃならないのは、アルフィスの命だろうに!)

本来、最も重要なのはその点の筈だ。 どんな結果になるのが、アルフィスにとって一番いいのかは判らない。 しかし、生きてさえいれば、少なくとも可能性だけは残る。 死んでしまえば、機会は永遠に訪れない。

(となると、ここか神殿に待機させるのが最善か?)

アルフィスが仕事に参加してデルケンに行くのは、最も危険だろう。 もしデルケン領主の叛意が本物なら、間諜と知られてしまった場合は無事では済まない。 周囲にそう悟らせないだけの器量がアルフィスにあればいいが、とてもそうとは思えなかった。 その上、危険は他にもある。 表向きはレイギンへの依頼だが、本物の依頼とは限らない。 本物の依頼としても、内容は反乱の調査だ。 もし第二王妃の勢力の本分が諜報活動なら、既にデルケンに潜入している者がいると考える方が自然だろう。 アルフィスがデルケンにいる事を知れば、暗殺を企ててもおかしくない。

危険の度合いを考えると、彼女をデルケンに行かせるのが、最も下策と言えた。

(依頼を突っぱねりゃ良かったんだが…その場合は、俺がシャールの間者と判断されていただろうな)

そう考えてみると、第二王妃の勢力にとっては、最初からレイギン自身も敵だった事になる。 遅かれ早かれ、このような事態になるのは避けられなかっただろう。

(なんにせよ、今回はアルフィスの身の安全を最優先すべきだ)

レイギンはそう結論付けると、口を開いた。

「アルフィス、今回はここで待機しておいてくれ。 やはりアルフィスには荷が重い」
「そんな…」

アルフィスの表情が絶望に満たされる。 彼女はその表情のまま固まってしまい、動かなくなった。

「僕は大丈夫だと思うけどな〜」

ティムが少し不満げに言うが、同意する気はレイギンにはない。

「俺から見れば、大丈夫じゃない」
「どうして…」
「俺がさっき少し黙っただけで、アルフィスはうろたえていたろう? あの位でペースを乱すようなら、すぐにボロが出る。 機転を利かせなきゃならない事も多く出てくる筈だ。 今のアルフィスに、それが出来るとは思えない」
「でも…!」

アルフィスは必死な表情でそこまで言ったものの、そこで言葉に詰まった。 レイギンはため息をつく。

「そこで機転の利いた返し方をしてくれるなり、自分のペースを保てる事を見せてくれれば、少しは考えたんだが」

返す言葉を見つけられないのか、アルフィスは黙っていた。 レイギンは再びため息をつく。

「身をもって判ったろう? 適性が低すぎる。アルフィス自身だけの話じゃない。 ティムまで危険に晒しかねない。 今回はここで待機しておいてくれ」

レイギンの言葉に、アルフィスは俯いた。 彼女はしばらくの間その場を動かなかったが、突然駆け出すと、扉を乱暴に開けて部屋から出て行ってしまう。

大きな音を立てて、扉が閉まった。

「あ〜あ…」

ティムが、呆れた表情でレイギンの方を見る。

「あそこまで言わなくても良かったんじゃないかな〜」

彼は、アルフィスが出て行った扉の方を見た。

「アルフィス、泣いてたよ〜」

ティムはレイギンの方を見ると、非難するような表情になった。 レイギンは、困惑するしかない。

(どうして泣くかね…)

泣いてしまったという事は、それだけアルフィスはこの依頼に参加したがっていたという事になるが、その理由がさっぱり判らなかった。
ふとティムの方を見ると、今度は不満げな表情になってレイギンの方を見ている。

「僕も面白くないね〜」
「どうしてだ?」
「レイギンがアルフィスにダメを出したって事は〜、僕にはアルフィスのフォローが出来ないって言われたのと同じなんだよ〜」
「ティムを信頼していない訳じゃないさ。 ただ、アルフィスに危ない橋を渡らせたくない」

レイギンは苦笑いを浮かべる。 ティムは、困った表情になっていた。

「アルフィスの事を大事に思ってるのは、判るけどさ〜」

どうやらティムはティムで、納得が行っていないらしい。

(やれやれ…)

こうしてみると、誰にも助力を頼まず、一人でやってしまった方が良かったかもしれない…レイギンがそう思い始めた時だった。

(レイギンさんの嘘つき!!!)

突然、アルフィスの声が頭の中に響き渡る。

(な!?)

突然の事にレイギンが声を失っていると、再び頭の中にアルフィスの声が響き渡る。

(わたしを見捨てたりしないって言ったのに!!!)

彼女の声は、不貞腐れた色を多分に含んでいた。


ややこしい事になった…。
レイギンは、そう思わずにはいられなかった。 アルフィスはさっきから、遠話でレイギンに言葉をぶつけ続けている。

(わたしが演技をしたり、機転を利かせた受け答えをするのが苦手なのは、判っています! 判っていますとも! でも、そんなにわたしを連れて行くのが嫌なの!?)

冷静さを失っているのか、言葉の端々で敬語が崩れる。 しかし、彼女自身はそれに気付いている様子はなかった。

(あの女は第二王妃の手の者なんですよね!? わたしは、ここにいる事を彼女に知られてしまっています! それなのに、わたしをここに待機させておくおつもりですか!?)

アルフィスの『言葉』は、一向に止む気配がない。

(わたし一人をここに残して! 見捨てないって、守ってくれるって言ったのに!)

どうやらアルフィスにとっては、それが気に入らないらしかった。

(信じてたのに! 嘘つき!)

アルフィスの言う事も理解は出来るが、レイギンには彼女の意図がさっぱり判らなかった。 不満があるならぶつけてくれてかまわない。 しかし今ここで、わざわざ遠話を使ってまでする事ではない筈だ。 ティムとの話が終わった後、面と向って言ってくれればいい。

(アルフィス、やめろ!)

遠話を使った場合、他の術者にそれを悟られる恐れがある…ついさっき、ティムが言ったばかりの筈だ。 彼の話からすると、遠話は、使える事自体が特別視される術らしい。 このままアルフィスが遠話を使い続ければ、ティムがそれに気付いてしまう可能性がある。 いや、既に気付いているかもしれない。

(遠話を使っている事を、ティムに気付かれる!)

アルフィスに伝わるよう念じながら、レイギンはそうと気取らせないようにティムの様子を覗った。 レイギンの方を、不満げな表情のまま見ている。 レイギンとアルフィスが遠話でやりとりしている事に、気づいている様子はない。 いや、そうだと思いたい。

(ティムさんに気付かれなかったら、いいのですよね!?)

レイギンの頭の中に響くアルフィスの声に、挑発的な色が混じった。

(試してみましょうよ! ティムさんのほどの魔術師でもわたしの遠話に気付かなければ、わたしだって十分に連絡役として働けます!)

彼女の言っている事は間違いではない。 それだけ自信があるとも取れる。 しかし、それはあまりにも危険すぎる。 そうでなくても、彼女がこのままレイギンに遠話で話かけ続ければ、彼の様子からティムが異変に気付いてしまうかもしれない。
そう思った矢先に、アルフィスの思念が飛んでくる。

(あら!)

彼女の思念は、さらに挑発の度合いを増していた。

(レイギンさんはわたしの指導教官ですよね!?)

いきなり話が飛ぶ。 今度は一体何を言い出すのやら。

(レイギンさんは先程、わたしに仰いました! 自分のペースを保てない、機転が利かないって! レイギンさんなら出来ますよね!? わたしが遠話でレイギンさんに話しかけ続けても、自分のペースを保って、機転を利かせて、ティムさんに気付かれないように出来るんですよね!?)

一呼吸おき、アルフィスの強い思念が飛んできた。

(わたしに手本を見せてみて!!!)

彼女の要求は、確かに筋が通っていた。

(やれやれ…)

レイギンはそう思いつつ、つい口許が綻んでしまう。 その様子に気付いたのか、ティムが怪訝そうな表情で口を開いた。

「どうしたんだい〜?」
「いや、ちょっとな…」
(ほら、ティムさんが怪しんでいますよ!)

合いの手を入れるように、レイギンの頭の中にアルフィスの声が響いた。 どういう手段を用いているのかは判らないが、レイギン達がいる部屋の様子が、それなりに判るらしい。

(教え子に、無様なマネは見せられないな)
(そうですよ、わたしが見ています!)

アルフィスは、どうやら遠話で邪魔をし続けるつもりらしい。

(意地の悪い教え子だ)
(意地は悪くないですし、レイギンさんほど口が悪くもないです!)

ティムは、怪訝そうな表情のまま、レイギンの方を見ている。
軽く笑うと、レイギンは口を開いた。

「どうやら、アルフィスが俺の悪口を言っているらしい」
(言ってません!)
「そうなのかい〜? 僕には聞こえないな〜?」
(そうですよ! わたしは言ってませんもの!)

アルフィスは会話に思念を割り込ませ、レイギンのペースを崩そうとしているようだ。

(そもそも、俺があらぬ事を口走ったりしたら、どうするつもりなんだ…)

それで誰が得をするというのか。 アルフィスの溜飲は下がるかもしれないが、それ以上の事があるとは思えなかった。

(上手くやれるんでしょう!? 見せてみて!!!)

アルフィスから飛んで来る思念から察するに、ある程度は思考も読まれてしまっているらしい。 同時に二人と話をしているようでせわしないが、逆に言えば、ただそれだけの事だ。

「ティムには聞こえないのか? どうやら部屋でベットを蹴飛ばしたり、枕を殴ったりしているみたいだぞ」
(し、してません! そんな事!)
「失笑したくもなるさ。 出来るだけ部屋の外に知られないようにやってるようだが、それでも結構派手にやっているようだ」
(あ、ある事ない事言わないで!)

狼狽えた様子のアルフィスの思念が飛んできたが、レイギンはそれを無視した。

「ああいう所は、まだまだ子どもだな」
(してませんし、子どもじゃないです!)
「仕方ないんじゃない〜? まだ経験が浅いんだし〜」
「大人しそうに見えて、意外と負けん気が強いみたいでな。 人には当たらないが、物には当たるらしい」
(わたしの性格を勝手に作らないで〜!)
「あはは〜。 人に当たらないだけいいじゃない〜」
(ティムさんも納得しないで〜!!!)

アルフィスの思念は、悲鳴に近くなっていた。

(身から出た錆だ)

半ば呆れつつ、レイギンはそう思う。 原因を作ったのはアルフィスなのだから、その位は許容してもらってもいいだろう。

「それはそれとして、ティムにやって欲しい役割の事だ」
「ん〜?」

レイギンが突然話題を変えたので、ティムは一瞬間の抜けた表情になった。 しかし、すぐに真面目な表情に変わる。

「ティムのやりたいように任せるが、吟遊詩人か旅芸人を装うのがいいんじゃないか? ティムはリュートが弾けたろう?」
「そうだね〜。 それが一番やりやすいかも〜。 目立ってもかまわないし、話を訊いても怪しまれないしね〜」
「ああ。 怪しまれない程度にやってくれ」

ティムにそう言いつつ、レイギンはアルフィスに思念を送る。

(きちんと聞いておけよ)
(えっ!?)

アルフィスにとっては予想外だったのか、彼女の思念には戸惑いがあった。

(もしアルフィスが来るのなら、アルフィスにやってもらう役割でもある)
(は、はい!)

彼女の思念に、明るい色が灯る。

(黙って聞いていてくれると助かる)
(わかりました!)

表情が目に浮かびそうなほど、嬉しそうな思念がレイギンに届いた。

(まだ喜ぶな。 喜ぶのは、結果が出てからにしろ)
(は、はい!)

彼女の思念は、今度の神妙そうになっていた。

「ティムから質問はないか?」
「どっちが先にデルケンに入るの〜?」
「吟遊詩人が先にデルケンに入った後に雇われ剣士がデルケンに入るのと、その逆は、どっちが怪しまれないと思う?」

レイギンが聞き返すと、ティムは腕を組んで軽く上を向き、右手の人差し指をトントンと動かし始めた。

「吟遊詩人が先の方が、自然かな〜?」
「なら、それで行こう。 デルケンの人間や兵士に何度か話しかけて、誰に話しかけても不自然ではないと思われるようにしておいてくれ」
「そういう人物像を作っておけばいいんだね〜。 わかったよ〜」

ティムは2回頷いた。 しかし、組んでいる腕を解いていない。 どうやら、考えている事が他にあるようだ。

「それはいいんだけど〜、連絡方法はどうしよう〜?」
「遠話は使えそうにないか?」

アルフィスのびくりとした思念が、レイギンに届いた。 レイギンが遠話の話を持ち出したのは、勿論ティムの反応を見るためだ。 もしティムがレイギンとアルフィスの遠話に気付いていれば、何かしらの反応を示すはずだ。 それがなければ、ティムは気付いていないと見ていいだろう。

ティムは眉をひそめると、再び右手の人差し指を動かし始めた。

「気付かれたりはしないと思うんだけど〜、う〜ん〜、万全を期すなら、ちょっと苦しいかな〜?」
「そうか…」
「アルフィスの言ってた方法で遠話をカムフラージュするのは、悪くないと思うんだけどね〜」
「ふむ…」

レイギンは左手を顎に当て、少し下を向く。

「アルフィスに手伝ってもらった方が、やりやすそうか?」

アルフィスが固唾を呑んだのが、思念として伝わって来た。 そんな事は全く思いもしない様子で、ティムはあっけらかんと言い放つ。

「もちろんそうだよ〜! レイギンが心配しなくても、アルフィスのフォローはきちんとするよ〜!」
「わかった」

レイギンは軽くため息をついた。 ティムにアルフィスを任せられるなら、その方が安全かもしれない。 ティムの様子を見る限り、アルフィスの遠話には気付いていないようだ。 それだけアルフィスの遠話は、秘匿性が高いという事になる。

(アルフィスの遠話も使えるのなら、複数の連絡手段が持てるか。 悪くはないな)

レイギンはそう思う。 アルフィスから思念が飛んでくるかと思ったが、予想に反してそれはなかった。
レイギンは、再び軽くため息をつく。

(アルフィス、そういう事だ)
(えっ!? それってもしかして!?)
(上手くやれる自信があるのなら、ティムを手伝ってくれ)
(は、はい!)

アルフィスの返事は、本当に嬉しそうだった。 レイギンからしてみれば、何を好き好んで危険な仕事に関わろうとするのか判らないのだが、ここまで乗り気なら仕方がないだろう。 無理やり押さえつけて、予想外の行動を取られても困る。

(さて、アルフィスの最初の仕事だ。 俺とティムのやり取りを知らなかったように、自然にこっちに来てみろ)
(はい! では、遠話は遮断しますね!)

喜色に満ちたアルフィスの思念の後に、何かが途切れたような感覚がレイギンを襲う。

(…最初から、遠話を切れって言えば良かったのか? そもそも、俺からは切れないのか?)

どうして今の今まで、その考えが出てこなかったのだろう? レイギンはそう思ったが、今となってはどうしようもない。 アルフィスにはああ伝えたが、こちらはこちらで、ティムをそれなりにごまかす必要がある。

「ティムがアルフィスの面倒を見てくれるなら、アルフィスに手伝ってもらおう」
「任せておいてよ〜! でも〜…」

ティムはそこまで言って言い澱み、困った表情になった。

「アルフィス、泣いてたよ〜。 お願いする前に、きちんと謝った方がいいよ〜」
「そうだな」

レイギンがそう言い、困った表情を作った時だった。 部屋の扉がノックされる。

「空いてるぞ」

最初からそう言われるのが判っていたとばかりに、扉が開く。 満面の笑みを浮かべたアルフィスが、そこに立っていた。

「改めて、わたしを連れて行った方が役に立つ事を主張しに来ました!」

アルフィスのにこにことした表情は、彼女が上機嫌である事を、この上なく物語っていた。

「アルフィス〜、ちょうど今、呼びに行こうと思ってたんだ〜。 大丈夫かい〜?」
「ええ、思いっきり泣いて、枕に当たったら、すっきりしました!」

一旦ティムの方を向いた後、アルフィスはレイギンの方に向き直る。

「今度は、負けませんよ!」

にこにことした表情のまま、彼女は言い放った。
レイギンは、苦笑するしかなかった。


そもそも、最初から分が悪かったのかもしれない。
無邪気に喜ぶアルフィスを見ながら、レイギンはそう思った。

アルフィスは自身の適性を否定された事に立腹し、ティムはアルフィスを守る自信をレイギンから否定された事に不機嫌になった。 仔細の違いはあるとは言え、共に 「レイギンに能力を否定された」 事が気に障った事になる。 その点で二人は共闘していたようなものなのだから、この結果は当然だったのかもしれない。

「ティムさん、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
「僕の方こそ、よろしくお願いするよ〜」

レイギンの気を知ってか知らずか、ティムとアルフィスは共に機嫌が良さそうだ。 特にアルフィスは、遠話を使っていた時の不機嫌さが嘘のようににこにこしている。

(魔法を使う連中ってのは、どこか似ているのかもな)

レイギンは、そう思わずにはいられなかった。 アルフィスは能力へのこだわりが強いようだし、ティムもまた、同じような傾向がある。 魔術は自分の能力が直に力となって現れるため、能力へのこだわりが強くなるのだろう。

(能力のあるなしは、確かに大事だろうが…)

レイギンは二人に気付かれないように、軽くため息をつく。

(命あってのものだねだろうに)

レイギンには、少し危険な考え方であると思えた。 もし、自身の能力への評価が間違っていた場合はどうするのか。 場合によっては、それは死に直結する。

(そういえば、レルトでも同じような事を考えたな)

レイギンがそう思うという事は、アルフィスの能力へのこだわりが、それだけ目に付くという事だ。 度を超さないうちに、矯正する必要があるかもしれない。

楽しそうに話を続けているアルフィスとティムを見て、レイギンは再びため息をついた。

「さて…アルフィスに少し話がある。 ティムは外しておいてくれないか?」

突然レイギンが声をかけたため、二人が驚いてレイギンの方を見た。

「僕がいちゃ、ダメなのかい〜?」

アルフィスに何を話すのか見当が着かないらしく、ティムは不思議そうな表情になっている。 彼は何か考えるような表情になると、その表情のまま口を開いた。

「僕がいちゃダメな事か〜…愛の告白でもするつもりかい〜?」

まさかそんな言葉を耳にするとは思っていなかったのか、アルフィスがびくりと身を震わせる。
レイギンは、この上なく呆れた表情になった。

「ティム…チュルクに毒されて来たな」
「ええっ〜!? 僕はチュルクみたいに、何かにつけて人をからかうような性格じゃないよ〜!」

ティムは心外だとでも言いたげな表情になる。 彼の言葉を信じれば、意図して人をからかうような性格ではないという事になる。 しかし裏を返せば、意図せずに人をからかうような言動をしてしまうとも言えた。 考えようによっては、さらに始末に終えない。

「それはそうとして、何なのかな〜?」

ティムの表情から覗う限り、本当に予想が着かないらしい。 レイギンは、軽く笑うと口を開いた。

「ティムの悪口だ。 その場にいても、気持ちのいいものじゃないぞ」
「本人の前で、そういう事を言わないでよ〜」
「はは。 本当の所は、お説教だ。 ティムがいると、俺をなだめに回りそうで都合が悪くてね」

そこで一旦言葉を切り、レイギンは付け加える。

「アルフィスの指導教官は俺だ。 俺には俺の考え方がある」
「なるほど〜…」

何をそう感じたのか、ティムは意外そうな表情になってレイギンの方を見る。 少しして彼はアルフィスの方を一瞥すると、再びレイギンの方を見た。

「手加減してあげなよ〜? アルフィスが恐がってるよ〜」

彼は冗談めかしてそう言う。彼の言葉通り、アルフィスは強張った表情で身を硬くしていた。
ティムは右手を挙げて軽く手を振ると、そのまま部屋を出て行く。 扉が閉まる音が、妙に響き渡った。

沈黙が、その場を支配する。

「レイギンさん…その…ごめんなさい…」

最初に口を開いたのは、アルフィスの方だった。 レイギンは、少し不思議そうな表情をする。

「何を謝るんだ?」
「先程レイギンさんに遠話を使った事を、怒られているのではないですか?」

上目遣いにレイギンの方を覗うアルフィスを見て、レイギンは少し笑った。

「はは、なんだ、その事か。 もちろん怒ってるさ」

レイギンはしかし笑いながら、たしなめるように続けた。

「謝るような事だと思うなら、最初からしない事だ。 軽はずみな行動は身を滅ぼすぞ」
「ごめんなさい…」
「いいさ。 さっきは俺も言葉が過ぎた。 だがな…」

レイギンの表情から、笑いが消える。

「話したいのは、その事じゃない」

アルフィスが、ごくりと生唾を飲み込んだ。 どうやら、何の話になるのか想像すらついていないらしい。

「アルフィス、覚悟は出来ているのか?」
「覚悟、ですか?」

アルフィスは、何の話なのかが判っていないらしい。 突然の事だけに、彼女の反応は自然とは言える。 しかし、この依頼に対して、彼女の想定が不足しているとも言えた。

「今回は依頼の内容が内容だ。 犯されて殺されるくらいの事は、覚悟の上なんだろうな?」
「そんな…殺されて犯されるなんて…」
「…殺されて犯されるとは、尋常じゃあないな」

レイギンがそこまで言った時、アルフィスが下を向いた。 そういえば、彼女の先程の言葉は、最後の方に近づくにつれ細くなって行った気がする。

「どうした?」
「………でください」

アルフィスの声は蚊が鳴くように小さく、レイギンにはよく聞き取れなかった。

「もう少し大きな声で言ってくれないと、聞こえないぞ?」

アルフィスは一瞬だけ顔を上げると、非難に満ちた表情をレイギンに向ける。 彼女は言葉の出来損ないのような声を出すと、すぐにまた下を向いてしまった。
レイギンはその様子から、アルフィスが何を言わんとしているか理解した。 同時に、ため息が漏れてしまう。
アルフィスはしばらく下を向いて黙っていたが、再び顔を上げた。 しかし、レイギンの顔を正面から見る事が出来ないようで、すぐに顔を背ける。

レイギンはまた、ため息をついた。

どうやらアルフィスは、レイギンがため息をついた事にすら気づいていないらしい。
しばらくして、彼女はやっと口を開く。

「わたし…女の子なんですよ? 犯す犯す言わないで下さい…」

レイギンの口から、3度目のため息が漏れる。 今回のものは、前の2回よりも大きく、深かった。

「そう言うのなら、やめておくか? 今ならまだ間に合うぞ?」
「ええ…。 え? えっ!?」

心無い様子で言葉を発したアルフィスは、突然驚いた表情になってレイギンの方を見た。 彼女の様子から察するに、最初はレイギンの言葉をろくに聞かずに返答してしまったらしい。

「そんな…どうして…」
「今回の仕事は、そういった類の危険も大きいって事だ。 殺されはしないでも、下手を打つとろくでもない目に遭わされる危険がある。 そうなっても耐える覚悟がないなら、やめておけ」

アルフィスは、すぐには口を開かなかった。 おそらく、その可能性を考えていなかったのだろう。 今になって初めて、表情に迷いが現れていた。
戸惑った様子を見せながら彼女は沈黙を続けていたが、ようやくおずおずと口を開く。

「レイギンさんが反対なさったのは、そのせいもあるのですか?」
「勿論だ」

レイギンが即答すると、彼女は再び黙り込んだ。 今度は、言葉を発する気配すら見せない。

「レイギンさんは、わたしにどうして欲しいのですか?」

その言葉が出てくるのにさえ、たっぷりと時間がかかった。

「ティムを手伝ってくれって言っちまったんだ。 今更どうして欲しいとは言わないさ。 アルフィスの意思次第だ」

レイギンの言葉に、アルフィスはまた黙り込んだ。
今度はさらに長くなりそうだったので、レイギンは独り言めかして言った。

「いずれはこういった仕事も経験するべきだろうが、少なくとも今じゃない。 色々な意味で、アルフィスには早すぎる」
「えっ!?」

レイギンの言葉の真意を測りかねたのだろう、アルフィスが驚いた表情をレイギンに向ける。

「アルフィスは司祭を目指しているんだろう?」

アルフィスの表情が、困惑の度合いを強めた。

「どうして、司祭の話が出てくるのですか?」

彼女の思いは、言葉通りなのだろう。 どうして今までの話が司祭と結びつくのか、想像もつかないらしい。

「司祭とは、なんだ?」
「えっ!?」

どう答えて良いのかに迷っている事が、アルフィスの様子からありありと見て取れた。 そのままではまた沈黙が続きそうだったので、レイギンは助け舟を出すように言う。

「司祭は、祭(さい)を司る者の事だ。 では、祭(さい)とはなんだ?」

アルフィスの表情はまだ困惑していたが、レイギンの言わんとする事を掴みつつあるように見えた。
出来れば彼女自身が答えに辿りつくまで待ちたかったレイギンだが、この話はそこで終わりではない。 真意はその先にあるため、彼女の答えを待たなかった。

「祭(さい)は政(まつりごと)、つまり政治の事だ。 特にここリーライナ自治領では、司祭は統治を行う者の筈だ」

レイギンの言葉に、アルフィスがはっとした表情になる。 しかし、まだ全てが繋がっている訳ではないらしい。 彼女の表情には、まだ困惑の色が濃く残っていた。

「レイギンさんの仰りたい事は、なんとなく判ります。 でも、どうして政治の話と、最初の話が繋がるのでしょうか?」
「アルフィスがそれを判らない事が、『まだ早い』と言った理由さ。 政治は、きれいごとじゃない、つまり…」
「待ってください!」

強い口調でレイギンの言葉を遮ると、アルフィスは続ける。

「わたし自身で答えを出してみます! それまで、待ってください!」

追い詰められている状況ではないにもかかわらず、アルフィスの表情は切羽詰っていた。レイギンは軽く笑う。

「それくらいなら、待つさ」

レイギンの言葉も耳に入らない様子で、アルフィスは下を向いて考え込んでいる。 真剣な表情になり、必死になってレイギンの言わんとする事を読み解こうとしている。

そう時間をかけずに、彼女は顔を上げた。

「政治はきれいごとではない…色事も避けて通れないという事でしょうか?」

レイギンは、自分の表情が思い切り下に崩れたのを感じていた。

「そう来たか…」

端から見れば相当間抜けな表情になっているだろうと思いつつ、レイギンは呟く。 アルフィスの表情には戸惑いが見えるが、おそらく真剣に考えた結果なのだろう。 しかし、まさかそのような方向に行くとは、さすがにレイギンも想定していなかった。

「も、もしかして、とてもおかしな答えを出してしまったのですか?」

レイギンの様子からそう感じたのだろう、アルフィスはそう言うと、レイギンから顔を背ける。

(俺が考えている以上に、考えが明後日の方向に行っているかもしれないな…)

つい先程までは、アルフィスがきちんとした答えに辿りつくのを待つつもりでいたレイギンだったが、このままでは埒が明かなくなりそうな気がしてきていた。

「まぁ、色事でもかまわないか…」

考えてみれば、そう大きく外れている事でもない。 レイギンはそう判断すると、アルフィスを正面に見据える。 彼女はレイギンの方を見る事が出来ないのか、顔を背けていた。

「色事でもなんでもいい。 アルフィスは、そういう事に係わりたくないんだろう?」
「はい…この考え方は、未熟でしょうか…」

どうやら心の底から嫌らしい。アルフィスの声は小さく、はっきりしなかった。

「未熟だとか、そういう事じゃないさ」

レイギンの目には、アルフィスの様子は微笑ましく映る。 嫌な事に対して、それでもきちんと答えを出そうとしている姿勢は殊勝に思えた。

「係わり合いになりたくない、その事について話したくない…だから、俺から目を背けているんだな?」
「そ…そんな事は…」
「別に非難してるわけじゃあないんだ。 率直に答えてくれ。 目を背けたいんだろう?」
「…はい」

レイギンから目を背け、俯いたままアルフィスはそう答えた。 本音では、早くこの話題から離れたいのだろう。

「なら訊こう。 目を背ければ、そういう事は消えてなくなるのか?」
「えっ!?」

アルフィスの表情が驚いたものに変わり、レイギンの方を向く。 すぐにはっとした表情になった所を見ると、どうやら何か掴みかけているようだ。

「…少し、判りかけてきました」
「本当は、アルフィスが答えに辿りつくまで待ちたい所だが…あまり長い間アルフィスを部屋に入れておくと、ティムから本当に愛の語らいをしているとでも思われかねない。 出来るだけ手短に言うぞ」
「はい…」

アルフィスは一言そう答えると、今度は下を向いてしまった。 レイギンには彼女がそうした理由が判らなかったが、今は気にしていても仕方がない。

「潔癖な考え方をしていれば、きれい事じゃあ済まないような世界からは目を背けたいだろう。 ないものとして扱いたいだろう。 だが、目を背けた所で、それがなくなるわけじゃあない」

レイギンが言葉を進めるにつれ、アルフィスの顔が上がってきた。

「きれい事では済まされない世界を、ないものとして政治をする事は出来るだろう。 しかし、そんな政治は長続きしない。 必ずどこか歪みが出てくる。 最悪の場合は破綻する」

アルフィスは、驚いた表情でレイギンの方を見ていた。 まさか、レイギンの口からそんな言葉が出てくるとは思ってもいなかったのだろう。

「別に、女は犯して当たり前だの、色事だのの世界に身を置けって言ってる訳じゃない。 ただ、そういった事と向き合おうとするなら、図太さや強かさが必要だな」

レイギンは、アルフィスに笑いかけた。

「アルフィスにはまだ早いってのは、そういう事だ」

アルフィスは、唖然とした表情で言葉を失っていた。

「レイギンさん…剣の腕は凄いと思っていましたけど…時々、剣士らしからぬ事を仰いますね。 今みたいに…」
「そうか? そこは適当に考えておいてくれ」
「レイギンさんはわたしの事を、あまり女の子扱いして下さらないとは感じていましたけど…今仰った事のせいなのですか?」
「司祭を目指しているのなら、強かさくらいは身に着けておいた方がいいだろう?」

アルフィスはレイギンの問いには答えず、下を向いて黙ってしまった。 しばらくして、ぽつりと呟いたのがレイギンの耳に届く。

「なら、最初からそう言って下されば良かったのに…」

レイギン自身は既にアルフィスにそう伝えたつもりでいたのだが、彼女がそう言うからには、おそらく伝えていなかったのだろう。

「さて、俺の考えを伝えたところで、改めて訊こう。 アルフィスはどうしたい?」
「やります! やらせて下さい!」

即答だった。

「レイギンさんが仰る通り、いずれ通る道なら、早い方がいいです!」
「そうか…アルフィスがそう言うなら、止める事は俺には出来ないな」

レイギンはため息を着く。 アルフィスの考えが変わる様子はないし、既に決まってしまった事だ。今更言ってもしょうがない。

そこまで考えてレイギンはふと、別の事が頭に浮かんだ。

「それはそうと、最初からアルフィスはこの仕事に参加するつもりでいたようだが…どうして参加したいと思ったんだ?」

虚を突かれたらしく、アルフィスが驚いた表情になる。 すぐにばつが悪そうな表情に変わった所を見ると、どうやら訊かれたくない事だったらしい。

「だって…その…レイギンさん一人に危険な仕事をさせるなんて、申し訳なくて…」
「そこは気にする必要は、ないんだがな」

何でもない様子でレイギンが返すと、アルフィスは不満げな表情を彼に向けた。 レイギンの言葉を待っているのか、口を開かない。 レイギンとしては、彼女が何故そんな表情をするのか判らなかったため、彼女の言葉を待つしかない。 結果として、沈黙が続く。

レイギンのその様子に、アルフィスは彼から顔を背けた。

「ここに残っても危険なら…同じ危険だったら…」

レイギンに聞こえないような小さな声で、しかし届いて欲しいという相反した思いを抱きながら、アルフィスは呟く。

「少しでも、近くに…」

その言葉が、レイギンの耳に届いたかどうかは判らない。気付くとアルフィスはその場から駆け出し、部屋から出てしまっていた。

レイギン一人が、部屋の中に残される。

「一体どうしたんだ?」

腑に落ちない表情で、レイギンは呟いた。


レイギンとアルフィスは、一体何の話をしているのだろう?
そう思いながら、ティムはゆっくりと自分の部屋に向っていた。

「アルフィス、遠話を使える気がするんだけどなぁ〜。 いや、あれは遠話じゃないか〜…何処で覚えたんだろう〜?」

遠話は、通信士用の機材貸出しが許可制であるのと同じ理由で、習得が制限されている。 教えてくれと頼んだところで、おいそれと教えてもらえる術ではない。 それどころか、習得の間口を狭めるため、存在自体を知らされない魔術師すら多い。
それ以前に、見習いとは言え聖職者であるアルフィスが、魔術を使える理由がよく判らなかった。 神殿では、そんな事は教えない筈だ。

「アルフィスは、何者なんだろうね〜。 ここに来たのは訳ありみたいだし〜。 レイギンもカルハナも連れないな〜」

自分達から言い出さないところを見ると、そうせざるを得ない事情があるのだろう。 それは理解できるが、ティムは自分が蚊帳の外なのが不満だった。 レイギンともカルハナとも短い付き合いではないのだから、自分に協力を仰いでくれてもいいと思う。 そのせいで、アルフィスのフォローを問題なく出来る事を、ついレイギンに対して主張してしまった。

なんにせよ、今回の仕事でアルフィスはティムに同行する。 はっきりとまではしないでも、アルフィスが何者なのか、どんな事情があるのか、仕事の間に垣間見えるかもしれない。

「色々と、楽しい仕事になりそうだね〜」

そう呟くと、ティムは無邪気に笑った。

インデックスに戻る