4.

妙な夢を見た。

自分を探しているような気配を感じた次の瞬間、森の中にいた。 傍らに金髪碧眼の青年がいて、自分の方を神妙な表情で見つめている。

誰なのだろう?

自分の記憶の中にはない人物だった。 左肩の肩当てや、左胸の装甲を見る限り、剣士か何かのようだ。

自分は、ついにおかしくなってしまったのだろうか?

ぼんやりと、エルフェはそう思った。 完全な孤独が、妄想を見せる程に精神を蝕んでいるのかもしれない。
それにしては、意味の判らない夢だ。 妄想ならば、願望が出所になりそうな気がする。 あんな意味の判らない夢ではなくて、自分が助け出される内容になりそうなものだ。 夢の中の青年は、「助ける」の一言すら言ってくれなかった。

そもそも、妄想に理由や理屈など求めるのが間違いなのかもしれない。

もう何日目だろう。 あと何日持つのだろう…。

思考の大半は、今やその2つに埋め尽くされている。

力ないため息をつくと、起きていても仕方が無いので、エルフェは目を閉じた。





木々の間を通り抜ける風が心地よい。 天気も良く、行動するのに気温もちょうど良かった。

(今日、エルフェさんを助け出せるといいのだけど…)

レイギンの後を歩きながら、アルフィスはそう思う。

アルフィス達は今、村から西北西の方向に向っていた。 最終的には、侏儒の集落がある場所からほぼ真北の領域を目指す事になる。

(エルフェさんが見つかりますように!)

彼女としては、そう願う他ない。 エルフェを無事に村へ連れて帰り、キルトや村長の喜ぶ顔が見たかった。 自然と、早足気味になってしまう。 その度、前を行くレイギンにぶつかりそうになり、慌てて歩みを遅くする。 そんな事を何回も繰り返していた。

森に入ってから、どの位経ったろうか。 少し前から、レイギンの様子がおかしい。時々立ち止まっては、周囲を覗っているような素振りを見せる。 何故そうしているのか、アルフィスには判らなかった。
しばらくして彼は再び立ち止まると、右手側の斜面の一点、一本の木をじっと見つめる。

「アルフィス、一昨日の夜はよく気が着いたな」

彼女の方を向きもせず、レイギンは半ば独り言のように言う。

「レイギンさん、何の事でしょう?」

レイギンはちらりとアルフィスの方を見ると、意外そうな表情を見せる。 しかしそれは一瞬の事で、すぐにまた、もと見ていた方向に顔を向けた。

「一昨日の夜はたまたまか? 俺が見ている方に、感覚を集中させてみろ」

言われた通り、レイギンが見ているのと同じ方向を向き、意識を集中させてみる。

(あ…)

彼の言わんとする事が判った。 レイギンに言われて初めて気付いたが、何かの気配が感じられる。 とても微かで感じ取りにくいが、一昨日の夜に感じたものとよく似ていた。 人間ではない。
アルフィスは、小声でレイギンに尋ねた。

「侏儒、ですか?」
「おそらくな。 俺ですら、気配を感じ取るのがやっとだ。 夜中に村の中を歩き回ってたとしても、誰にも気付かれなくてもおかしくない」

同じように小声でそこまで言って、レイギンは一旦言葉を切る。

「さっきからずっと、俺達を尾けて来てやがる…俺達を監視しているようにも思えるが、何のためだ? 俺達を追い返したいのなら、姿を現すか、仲間を連れに住処に戻りそうなもんだが。 何か他に意図があるのか?」

彼は軽くため息をつく。 侏儒が自分達の後を付け回している理由が、どうもよく判らない。

「ひっ捕まえるのは出来そうだが、締め上げた所で言葉が通じないな。 どうしたものか…」
「あの…話が通じるかもしれません」

レイギンはアルフィスの方を向き、怪訝そうな表情を浮かべた。

「侏儒の言葉が判るのか?」
「厳密に言えば、そういうわけではないのですけど…」

アルフィスは自信なさげな表情になり、声のトーンが落ちる。

「昨日、レイギンさんの意思を読み取れましたよね。 あれと同じ方法を使ってみます」
「なるほど。 しかし、侏儒相手に上手く行くのか?」
「上手く行かなかった時は、フォローして下さいますか?」
「ああ。 どういう手段になるかは、成り行き次第だがな」
「ありがとうございます。 では、やってみます」

アルフィスは微かに笑ってそう返すと、目を閉じた。 存在を感じ取る事に意識を集中させる。 木の陰、こちらの視界からは死角になった場所に、侏儒の気配が感じ取れた。 そちらに意識を向ける。 自然と、両手をそちらに向って突き出していた。 存在そのものを掴み取るように、両の手をゆっくり閉じていく。 侏儒の存在が、はっきりと認識できた。

(どうして、ずっとわたしたちを着けているのですか?)

侏儒のいる場所に向けて、疑問の思考を放つ。 どうやら、届いたらしい。 戸惑っている様子が感じ取れる。

(オネエサン、僕タチト同ジ方法デ話ガデキルノ?)

帰って来た意識を言葉にすると、そんな感じになるだろうか。 半信半疑、恐る恐る返して来ているのが判る。

(ええ。あなたさえ良ければ、話がしたいのだけど)

まだ、侏儒は戸惑っているようだ。 どうするべきか迷っているらしい。
決断は、思考のかたちでは返ってこなかった。 かわりに、木の陰から侏儒が姿を現す。 真っ赤な目が、じっとこちらを見つめていた。

「話が通じたのか?」

戸惑いながら、レイギンが尋ねてくる。
アルフィスは目を開くと、怪訝そうな表情でレイギンの問いに答えた。

「ええ。でも…」

どうやら、彼女自身も戸惑っているらしい。

「わたしたちに、ある人を助けて欲しいそうです」

彼女の表情は、完全に困惑していた。





レイギン達の先に立って、侏儒が進んでいる。 こちらに背中を向けているが、警戒の色は全く無い。

「言葉さえ通じりゃ、こんなややこしい事にならずに済んだんだろうな」

先に立って進む侏儒の後を追いながら、レイギンは一人つぶやいた。
アルフィスを通して聞いた、侏儒の頼みの大まかな内容はこうだ。

「自分を恐れて逃げ出した人間の女性が、救助が必要な状態に陥ってしまっている。 助けて欲しい」

状況からして、エルフェ以外には考えられない。侏儒は、彼女のいる場所まで案内してくれるそうだ。
アルフィスの言った事が正しければ、嘘はついていないらしい。 言葉でなく思考でやりとりを行うので、嘘をついていればすぐに判るのだそうだ。

(平和的で、良くできたヤツらじゃないか)

どうして危険を冒してまでエルフェの救助を頼みに来たのか、最初はそこが判らなかった。 アルフィスを通して訊いてみたところ、責任を感じているそうだ。

「人間が自分達を恐れて逃げるのは仕方が無いけれど、そのせいで命を落とすような事になって欲しくはない…だそうです」

話を信用する限り、どうにかしてエルフェの事を伝えようとレルトの村まで行ったものの、さすがに白昼堂々と姿を見せる訳には行かなかった。 夜を待って話が通じそうな人間を探していた所、アルフィスに見つかって思わず逃げてしまったそうだ。
今日になって森の中でレイギンとアルフィスの姿を見つけ、どうにかしてエルフェのいる場所まで誘導できないか考えながら後を追っていたが、どうすればよいか判らず途方に暮れていたらしい。アルフィスが意思を通じさせる手段を持っていたのは、幸運としか言いようがなかった。

(それにしても、侏儒の村からは随分と北の方だな。 昨日アルフィスが感じた通りか。 おや…?)

頭の中に位置関係を描いたレイギンは、ある事に気付いた。

(酒場の大将が言ってた、魔族みたいなヤツが出たって場所に近づいて来てるな)

何か関係があるのだろうか? もし近くに遺跡か何かがあるのなら、同じようなものと出くわす可能性がある。 侏儒が遺跡らしき建物を住処として使っていた事を考えると、可能性はありそうだ。 エルフェが無事であればいいのだが…

そんな事を考えながら歩いていると、不意に侏儒が立ち止まり、こちらを向く。

「この近く、だそうです。 危険かもしれないので、ここで止まったそうです」

アルフィスが侏儒の思考を伝えてくれる。
レイギンは、進む先を注意深く観察してみた。 木々が生い茂っているためはっきりとは判らないが、20クルート(約25m)くらい先の地面に、穴のようなものが見て取れる。 穴とは言っても、近づかないとそれと気付かないかもしれない。 大きさは人一人分よりも大きい程度だ。 穴の側面は土が露出しており、木々の細い根のようなものが見て取れる。 元々開いていたというよりは、比較的最近出来たもののようだ。

図らずも、侏儒がその穴の方を指差す。

「エルフェさんがあの場所まで行った時、突然地面が落ちたそうです」

元々は、何の変哲もない地面だったという事か。 となると、侏儒がこんなに離れた場所で立ち止まったのも合点が行く。

「あまり近づくと、同じように地面が落ちてしまうかもしれない、って言ってます」

妥当な判断だと思う。

(近づいてロープで引っ張り上げるのは、ムリか)

救出する方法を考えていると、侏儒がだんだん落ち着かない様子になって来た。 早くどうにかして欲しいとやきもきしているのだろうか?

「レイギンさん、このコ、もう帰りたいって言ってます」
「どうしてだ?」
「訊いてみます…侏儒の方では、人間と関わる事を良しとしない方が多いそうです。 だから、他の誰かに見られたりする前に、わたし達から離れたいと…」
「ああ、そういう事か。 判った。 礼を言っておいてくれ」

アルフィスが侏儒に礼を伝えたのだろう、侏儒がレイギンの方を見た。 人間とはあまりにも違う風貌のため、表情からは何を考えているのか全く読み取れない。

「礼の代わりに、エルフェさんを必ず助けて欲しい、みたいな感じの事を言っています」
「判った。 必ず助けると伝えてくれ」
「ありがとう、だそうです」

アルフィスがそう言うと同時に、侏儒はレイギン達の横を通り過ぎていく。 もと来た方向に小走りに走って行くと、あっという間に木々に紛れて見えなくなった。

「言葉さえ通じりゃ、レルトの村と何の問題も起きないんじゃないか?」
「そうですよね…」

つぶやくようにそう言ったアルフィスの声は、少し悲しそうだった。

「それはそれとしてだ。 どうやらエルフェが生きているのは間違いなさそうだな。 ただ、随分と下の方にいるようだ」
「…レイギンさん、本当にすごいですね。 自然にそういう事が出来るんですか?」
「あの穴の下にエルフェがいるって判ってなきゃ、さすがに判らなかっただろうがね。 それにだ…」

困った表情になり、レイギンは続けた。

「俺は気配は読み取れても、エルフェのいる場所がどうなっているか判らない。 こんな状況でなければ、地面を叩いた時の音の響きを聞いたりして、どの位の広さか調べたり出来るんだが…それでエルフェの上に地面が落ちたりしたら、元も子もない」

アルフィスは、レイギンが困った表情になっている理由を理解した。

「アルフィス、昨日侏儒の村を調べたのと同じ方法で、調べてくれないか?」
「はい。 やってみます」

彼女は答えると、冗談めかして続けた。

「もしまた倒れてしまったら、その時はお願いしますね」

レイギンは苦笑いしながら、軽く頷いた。





困った事になった…。

家の前に集まった村人達を見下ろしながら、村長はそう思った。

「村の中に、侏儒が入り込んでたって話じゃないか! ヤツラは攻めてくるつもりなのか!?」

村人達が、異口同音に同じような事を唱える。 どこからこの話が漏れてしまったのか判らないが、噂として広まってしまったらしい。 一昨日の夜に侏儒を見たのはアルフィスだけでなく、それ以外にもいたという事だろうか。

「まだ、侏儒が攻めてくると決まった訳ではありません。 落ち着いて…」
「そんな事を言っている間に攻めてきたらどうするんだ!」
「あいつらは何を考えてるか判らねぇ! たった今も、攻めて来る算段を立ててるかもしれねぇ!」
「ヤツらはここの所、よく姿を見かけるようになってた! やっぱり攻めてくるつもりなんじゃないのか!?」

噂の出所は判らないが、内容は 「侏儒を村の中で見た」 程度のものだろう。 実際、侏儒が村の中で何をしようとして、何をしたのかはまるで判らない。 目に見える結果は何も起こっていない。 そのせいで、憶測が入り込む余地があったとも言える。 それが一人歩きし、このような事態になってしまったのだろう。 村人達の侏儒への感情、くすぶった怒りが、間違いなくそれを後押ししている。

「まだ何も起きていないんです。 侏儒はこの村に迷い込んだだけかもしれない。 むやみに恐れても、意味がありません」
「そういうこった!」

人垣の後ろから、初めて村長を支持する声がかけられた。 そちらを見ると、酒場の主人が呆れたように人だかりを見ていた。

「手前ら…侏儒が村に入り込んでたとしても、村長に文句言ってどうするんだ!? 侏儒が恐ぇって言うのなら、ここでこんな事をしてるヒマなんぞねぇだろ!? そのヒマがあるなら、村の外に柵でも作れ!」

彼は、威圧するように人垣をねめまわす。 「反論を聞く気はない」と、目が語っていた。

「で、でも、柵を作ったりしても、根本的な解決にならないじゃないか! 狩は森でするんだぞ! そこで侏儒に襲われたりしたら、いくら村の防御を固めても意味が無い!」

若者の一人が、余計な事を言う。 確かにそれは正論だが、侏儒が村人に対して害意を持っているという前提が必要だった。 今まで侏儒による被害が出ていないのはその反証となるが、説得の根拠とするには弱すぎる。
若者の言葉に呼応して、いくつもの声が上がった。

「そうだ! ヤツらが森をうろちょろしてちゃ、いつまで経っても安心できねぇ!」
「こっちから攻めていって、追っ払っちまえ!」
「村全体でかかれば、侏儒のヤツらにも勝てるはずだ!」

どうやらここに集まっている村人達の意識は、侏儒と戦う方向に向いつつあるらしい。 レイギンが恐れていた事が、現実になろうとしていた。

「攻めるだの追い払うだの、簡単に言うな! 誰がやると思ってんだ!」

押さえつけるように酒場の主人は叫ぶが、村人達はだんだんとひるまなくなって来ていた。

「大将、あんたなんでそんな事を言うんだ!? まるで侏儒と戦いたくねぇみたいじゃねぇか!」
「余計な戦いなんぞ、しなくていいんだよ! 当たり前だ!」
「恐いのか!」
「なっ!?」
「そうだ! 侏儒と戦うのが恐いんだろう!」
「俺が侏儒を恐れてるだと!?」

悪い事に、村人たちの言葉は酒場の主人のプライドを刺激してしまったようだ。 表情が激昂したものに変わりつつある。

「俺は侏儒を恐れてなんかいねぇ! 攻めて来るなら戦ってやるさ! だがな!」

反論を許さない気迫を込め、酒場の主人は続ける。

「どこに攻めて行きゃいいのかもわからねぇ! 敵の数もわからねぇ! そんなんで勝てるとでも思ってやがるのか!」

彼の言葉はそれなりに効果があったらしく、一瞬村人達が黙り込む。
しかし、それも長くは続かなかった。

「侏儒の集落の場所は、だいたい判ってる筈だ!」
「案外少ないかもしれない! やってみなくちゃ判らない!」
「軍も神殿も、実害がねぇって事で動いちゃくれねぇ! 俺達でやるしかねぇ!」

村人達の感情は、最後の男の言葉に尽きるだろう。 侏儒との問題に関しては、今まで何処も動いてくれなかったのだ。

「あいつら、いつ動いてくれるか判ったもんじゃねぇ! 被害が出てからじゃあ手遅れだ!」
「そうだ! いきなり攻めてきて、皆殺しにされたらどうするんだ!」
「その前に、こっちから行くしかない!」

埒が明かなくなって来た。 村人の中に積もり積もった不安と恐怖が、はけ口を求めている。 長年蓄積されて来たその感情は、そう簡単には収まりそうにない。

「ヤツらをやっちまえ!」
「そうだ、この土地から追っ払え!」

もはや、侏儒を征伐する意見しか出てこなくなっていた。

それまで黙っていた村長が、突如として口を開く。

「私達だけで、100近い数の侏儒を相手に出来ると思っているのですか!」

彼の言葉に、水を打ったように周囲が静まり返る。 侏儒征伐の流れは、楽観論に乗っていた部分もあったのだろう。 具体的な数を出された事で、冷静さを取り戻した者もいるようだ。
村長は、集まった者達を解散させるのは、今しかないと判断した。

「侏儒との事は、私達だけでどうにか出来るものではないのです。 改めて、じっくりと議論した上で対策を決めましょう」

彼の言葉に、集まった村人達は、一人、また一人ときびすを返そうとする。
どうやらこの場は収まりそうだと、村長は感じた。

そんな時、帰って行こうとしていた若者の一人が、ふと何かに気付いたようにこちらを振り返る。

「村長…どうして侏儒の数を知っているんだ?」

帰って行こうとしていた者達が、一人、また一人とこちらを振り返る。
嫌な沈黙が、周囲を支配した。

「侏儒の数を、どうやって知ったんだ?」

誰かが疑問を口にする。

「村長…冒険者を雇って、娘さんを探させてたな、あんた」
「昨日、冒険者の剣士が、司祭の女の子を背負って帰って来たのを見たよ」
「あの二人、侏儒と戦ったんじゃねぇのか?」
「そんな事はありません!」

村長は強く否定したが、その場を覆った不信を拭い去る事は出来なかった。

「手前らなぁ…」

呆れたように、酒場の主人が割り込んで来た。

「あの兄ちゃんが、どんだけ強いか知ってんのか!? 仮に侏儒と戦ってたとしてもだ。 それが逃げ帰って来た相手だぞ? 俺達でどうこう出来ると思ってるのか!?」

たしなめるよう酒場の主純はそう言ったが、あまり効果はなかったようだ。

「もし戦ってたらどうするんだ! 侏儒の奴等、仕返しに来るぞ!」
「そうなる前に、こっちから討って出ないと!」
「そうだ! ヤツラが来てからじゃ遅いんだ!」

最早、村人達の勢いを止める事は出来そうに無い。
無駄とは思いつつも、酒場の主人は再び村人達をたしなめようとした。

「わかんねぇ奴等だな! 冷静になれ! 勝ち目がねぇ戦いをするのはバカのやる事だ!」

村人達は一瞬ひるんだものの、納得した様子はない。
酒場の主人がどう続けるか考えていると、村長が口を開いた。

「わかりました」

今までになく、強い語気だった。

「確かに、侏儒との事は、いずれどうにかせねばならない問題です」

反論を許さない口調だった。
そこで言葉を一旦切り、人垣を端から端まで見渡した後、村長は続ける。

「しかし、戦っても勝ち目が薄いのも事実です。 これは、判って頂けますね?」
「でも、あんたの娘は…」

誰かがそう言ったが、村長はそちらをきっ、と睨む。
再び、沈黙が訪れた。

「レイギンさん達が、夕方には一旦戻って来る筈です。 彼等と相談した上で、今後の対策を決めましょう」

誰も言葉を発しなかった。 村長は言葉を続ける。

「もし侏儒を追い払う結論になれば、レイギンさん達にも手伝って頂きます。 戦力は少しでも多い方がいい筈です。 それで、よろしいですね?」

村人達は、互いに顔を見合わせていた。 細かい点はともかく、村長の言葉は理にかなっている。

「もし、それまでに侏儒が攻めてきたら…」
「そん時ゃ、俺が何とかしてやる! 心配するな!」

村人達は何か言いたげにしていたが、口を開く者はいなかった。
たっぷり時間を置いた後、村人の中の一人がおずおずと口を開く。

「でも、あの冒険者が帰ってこなかったら…」
「その時は、改めて議論しましょう」

それが決定打になった。 不満げな表情を浮かべつつも、村人達は三々五々、その場から離れて行く。

(やれやれ…)

酒場の主人は、ほっと胸をなでおろした。






侏儒といた場所から少し戻った所に、レイギン達は移動していた。
アルフィスはしゃがみこんで、地面に棒を当てている。

「ここに、エルフェさんがいます」

落ち葉を払って土を露出させた地面には、大きな円が描かれていた。

「直径は、40クルートくらいでしょうか。 ドーム状の空間です。 すごくきれいな半球状になってますから、自然に出来たものとは考えにくいです。 何かの遺跡ではないでしょうか?」

エルフェがいる場所の様子を簡単に説明し、アルフィスは言葉を続けた。

「わたしたちが先程までいた場所は、ちょうどこの円のふち辺りです。 あの侏儒が言った通り、あれ以上進むとどこかが崩れたかもしれません。 円の一番北側に何か…おそらく扉を隔てて、北に向って長い通路が延びているようです」
「その先は?」
「そこまでは感覚の範囲を広げなかったんです。申し訳ありません」

言葉通りの表情になり、アルフィスは付け加える。

「あまり感覚の範囲を広げすぎると、また倒れてしまうかもしれませんでしたので…」
「そうか。気にするな。 よくやってくれた」

レイギンの言葉に、アルフィスははにかんだ。

「今度はご迷惑をおかけせずに、お役に立てました」
「レルトの村に来てから、アルフィスは文句なしに役に立ってるよ」
「そんな…」
「信じられないって顔だな。 俺の言葉が信じられないのか?」

レイギンが冗談めかして言うと、アルフィスは少し俯いた。

「信じます」

彼女は小声でそう言うと、もごもごとした様子で続ける。

「…嬉しい、です」

そう言ってしばらく黙り込んだ後、アルフィスは顔を上げ、にっこりと微笑んだ。

「さあ! エルフェさんを助ける方法を考えましょう!」
「そうだな」

レイギンはあごに手を当て、アルフィスが地面に書いた図を見下ろす。

「アルフィスは魔法で飛べるか?」
「出来ると思います。 やってみましょうか?」
「なら、入るのは問題なさそうだが…出る時は2人分の大きさが必要か。 その時に壁にぶつかったりして、周り全部が崩落して生き埋め、なんて事になったら取り返しが着かないな。 やめておくか」
「そうですね…」

アルフィスは困った顔をする。 彼女自身も方法を考えているのだろうが、上手い方法が思いつかないらしい。

「昨日やった、瞬間移動とかいうのはどうだ?」
「あれは、自分自身にしか使えないんです。 使い慣れていれば、人一人くらいなら一緒に運べるのでしょうけど…」

アルフィスは申し訳なさそうな表情になってそう言うと、付け加えた。

「それに、瞬間移動はものすごく疲れるんです。 わたし1人でもそうですから、2人だと、発動させられないかもしれません。 使い慣れていませんから、わたし一人でも、昨日のように上手く行くとは限りませんし…」
「なら、それもやめておいた方がいいな。 アルフィスだけ先にエルフェの所に行ってもらって、手当てが必要な状況ならそうしてもらっておいてもいいが…きちんと帰って来れる保障はないか。 二重遭難でもしちまったら、何をしに来たんだかわかりゃしない」

レイギンは、指先であごをかく。 彼はしばらく黙っていたが、おもむろに口を開いた。

「少し、焦りすぎだな。 まずは状況確認だ。 エルフェの状況が判ればいいんだが」
「あの…遠話を試してみましょうか?」

おずおずと、アルフィスは申し出た。 表情から察するに、自信がないのだろう。 先程侏儒相手に使った時や、昨日レイギンに対して行った時とは、勝手が違うのかもしれない。

「地面を隔てていますから、上手く行かないかもしれませんけど…」

レイギンは少し考えたが、試してみる価値はありそうだ。 失敗しても、特に不都合は生じない。

「そうだな。 やってみてくれ。 もし上手く行けば、色々と助かる」

アルフィスは、こくりと頷いた。








気のせいだろうか? 微かに人の話し声が聞こえる気がする。

(誰か、助けに来てくれたの?)

そう思いたかったが、今までにも何度かそんな事はあった。 一番最初の時は、助けが来たのかと思って大声を出してみた。その時は何の反応もなかった上、自分の声が大きく反響し、天井からぱらぱらと砂が落ちて来て肝を冷やした。 雪山では、大声を出すと雪崩が起こると聞いた事がある。 同じような事が起こってしまうかもしれない。 助けが来ていると確信できれば、話は別なのだが…。

いっその事大声を出して、天井を崩落させてしまおうか?

本当にそうなるかどうかは判らないが、その方がまだ希望があるかもしれない。都合のいい位置が崩れてくれれば、外に出られる望みが出てくる。 ここでじっとしていても、最後には死んでしまうだけだ。

エルフェは大きく息を吸い込んだ。 声を出そうと口を開きかけたが、天井全てが崩れてきてしまう予感が頭をよぎり、躊躇してしまう。

(それに、なんにも起きなかったら、どうしよう…)

むしろ、その方が精神的な打撃が大きいかもしれない。 出来る事が何もないという事実を叩きつけられる事になる。 しかし、その方が諦めがついていいかもしれない。

エルフェは覚悟を決め、再び口を開こうとした。 その瞬間、頭の中に声が響く。

(エルフェさんですか?)
「あ」

予想外の事が起こったため、間抜けな声が出てしまう。 何が起こったのか把握できなかった。 少しして、どうやら話しかけられたらしいと思い当る。 声の主を探してきょろきょろと周囲を見回してみるが、ほぼ完全な闇に包まれたこの場所では、そんな行動に意味はなかった。 それらしき気配も感じられない。

「幻聴かしら? 昨日も変な夢を見たし…わたし、もうダメかも…」
(エルフェさん、ご無事ですか? 今、わたしたちは、あなたが落ちた穴の近くにいます)

多少、もごもごとした感じがする。 いや、くぐもった感じと言うべきか。 どうやら、音として聞いている訳ではないらしい。

「誰!? どうやって…」
(遠話を使って、エルフェさんに思考を伝えています。 伝えたい事を強く念じて下さい。 今は、わたしが一方的に思考を伝えています。 もし無事なら、伝えたいと強く念じて!)

人の話し声が聞こえていたのは、空耳ではなかった。 本当に助けが来たらしい。 しかも、魔術師のようだ。 『話せる』と表現すると語弊があるが、とにかく話が出来るのはありがたい。

(わたしは生きてる! この思い、受け取って!)

強く念じる。 返答は返って来るだろうか? 自分の頭がおかしくなって、妄想をしてしまっているのではないと信じたい。

すぐには返答は返って来なかった。 おそらく、実際の時間にすればそんなに長い間ではなかったのだろう。 だが、今のエルフェには、途方もなく長い時間に感じられた。

(よかった! わたし、アルフィス・レイトと申します。 リーライナの仮司祭です。 一緒に、レイギン・シュヴァルツという剣士…冒険者の方がいます)

頭の中に、髪を一本に編んだ小柄な少女の姿が浮かんだ。 重そうな金属鎧を着て、長い純白のスカートをはいている。 精神的に繋がったという事なのだろうか? 頭の中に響いて来る声は、実際に会話をする時のように、はっきりと聞こえるようになっていた。

(ご無事ですか?)
(落ちた時に打ったところがいくつかあるけど、今は大丈夫みたい)
(動けますか?)
(ええ。 大丈夫よ)
(良かった…)

アルフィスという少女は、安堵のため息をついたようだった。 その後しばらく、アルフィスの方からは思念が飛んで来ない。

(ご無事で何よりです)

さっきもこんなふうに、やりとりの間に少し間があった気がする。気になったので、エルフェは理由を訊いてみる事にした。

(時々黙っちゃうけど、どうして?)
(あっ! ごめんなさい! エルフェさんの事を、一緒にいるレイギンさんに伝えているんです)
(そのレイギンって人が、アルフィスに指示を出してるのかしら? 不便じゃない?)
(出来るかどうかは判りませんが、わたしが仲立ちをして、レイギンさんと話を出来るようにしてみましょうか?)
(お願い)

再び、アルフィスが『沈黙』 する。 しばらくして、彼女とは別の声が頭の中に響いた。

(レイギン・シュヴァルツだ。 どうやら無事みたいだな)

アルフィスとは違って、姿は頭に浮かばなかった。 アルフィスの『声』ほど明瞭でないのは、彼女と違って直接精神が繋がっていないせいだろう。 『声』の感じからして、青年のようだ。

(いきなりで悪いが、状況を訊きたい。 動けると聞いているが、体調はどうだ?)
(気分は最悪よ)
(…俺は体調について尋ねたんだがな)

はっきりとは判らないが、呆れているような感じが伝わってくる。 閉口させてしまったかと思ったが、レイギンという男はすぐに思念を送って来た。

(減らず口を叩けるのは、体調は悪くない証拠だな。 食料はあるのか?)
(あるわ。拾って来た木の実を持ってたから。 節約して食べてたのよ)
(いい判断だ。 おかげで、俺達が間に合った)

感心したような意識が伝わってくる。 賞賛も含まれていた。

(今いる場所の様子を教えてくれると助かるんだが、判らないか? 円形の空間で、北に扉がある事までは把握している)
(魔法でも使ったの? この場所がまるいかたちをしてるなんて、今初めて知ったわ)
(アルフィスが、な。 ただ、大雑把な事しか判らないらしい)
(そうね…)

エルフェは少し考えると、自分の知っている事を伝える事にした。

(わたしが落ちた場所は、他のところよりも高くなってるみたいなの。 扉…あれは扉だったのね。 高くなっている所から、その扉に向って、下りの階段があるわ。 その一番下、扉の前に…あれは橋かしら? ちょっとした橋が扉に向って続いてて、その間に浅い水路みたいなものがあるの。 水が澱んでいないから、どこかに繋がっているみたい)
(明かりがないのに、よくそこまで把握したもんだな)
(どうにかここから出ようと思って、努力はしてみたのよ)
(そういう事か。 扉は開かないのか?)
(開くかもしれないけど、わたしの力ではムリ。とても大きくて、重いもの)
(その先に通路があるらしいんだが…)

レイギンから送られてくる思念が止まった。 何か考えているのだろうか?

少しの沈黙の後、おもむろに思念が送られてきた。

(待てるか?)
(えっ!?)
(天井が崩落する危険がある。方法を考えているが、ここで今すぐ助けるわけにはいかないかもしれない。 無理なら、今あんたがいる場所に行ける道を探して、そちらから向う事になる。 可能な限り安全な方法を採りたいんでね。 その場合、待てるか?)

そんな事を言われても、待つ以外にないではないか。

(わたしが出来る事、待つ以外にないじゃない)
(待てると思っていいか?)
(待つわよ。 それしか出来ないもの)
(その時は済まないが、待っていてくれ)

レイギンという男は、そこで一旦『言葉』を切る。

(必ず助けてやる。 約束する)

強い意志だった。

(助けに来てくれる…)

不意に、「助かる!」という意識が押し寄せてきた。 何故今の今まで、その考えに行き着かなかったのだろう? 現実味のない方法を使って会話をしているせいで、実感が沸かなかったのかもしれない。 だが、今となっては、助かるという実感、生きて村に帰りたいという欲求が、とめどなくあふれ出して来ていた。 冷静さを保てない。

(助けて…)

会話で言うなら、独り言のような状態だったのだろう。 レイギンには届かなかったかもしれない。
今まで張っていた緊張の糸が、ぷっつりと切れた。

(助けて! お願い、ここから出して! 待ってるから! ずっと待ってるから! 来てくれるまで、ずっと待ってるから!)

気が着くと、涙を流しながら懇願していた。

(心配するな、助けてやる)
(お願い! 絶対、絶対よ!)
(ああ、必ず助けてやる。 だから、出来るだけ体力は温存しておけ。 少し時間がかかるかもしれない)
(わかったわ…)

まだ感情が胸の中でくすぶっていたが、無理に押し殺した。 レイギン達は、エルフェを助ける方法を考えているという。 その邪魔をしてしまっては、助かるのが遅くなってしまう。

(方法が決まったら、また連絡しよう。 とりあえず、それまで少し待ってくれ)
(いいわ。 出来るだけ早くお願いね)
(努力はするよ)

それを最後に、レイギンからの意識は飛んでこなくなる。 おそらく、自分を助ける方法を検討しているのだろう。

エルフェはその場にうずくまると、胸のあたりをぎゅっと握った。

(待ってるから。 信じて待ってるから…)

涙が、再び流れ出していた。







レイギンとアルフィスは、エルフェのいる場所を迂回し、北の方向へ向っていた。

「入り口が塞がっていなければ、ありがたいんだが」
「わたしの見た限りでは、大丈夫だと思います…」

応えるアルフィスの声は、最後の方に行くにつれ小さくなって行っていた。 自信がないのか、疲労のせいなのか、どちらなのかは判らない。 あるいは、その両方か。

「大丈夫か?」
「わたしは大丈夫です。 それよりも、早く…」

やはり、表情や声色に疲労の色が濃い。

(無理をさせすぎたか…)

レイギンは後悔したが、最善の手段はそれしかなかったとも思う。
エルフェとのやりとりを一旦終えた後、アルフィスに可能な限り感覚の範囲を広げてもらい、エルフェのいる場所へ行けそうな経路がないか調べてもらった。 アルフィスの話では、レイギン達がいる場所から少し北に進んだ後、東の方向に進むと、中に入れそうな場所があるらしい。

「エルフェさんがいる部屋から続く長い通路の先に、もっと大きい円形の部屋があります。そこから、東と西に向う通路が出ているのですが、西に向かう方は、途中で行き止まりになってしまっています。 東へ向かう方は…こっちは、外に続いているようです」

アルフィスはそう言っていた。 その通りだとすると、妙な構造だ。 遺跡だとしても、何のためのものだろう?

「ちょっと、気になる事があります。 大きい方の部屋に何か…説明しにくいのですが、大きな生き物がいるようです」

彼女の言葉が正しいなら、少なくとも大型の獣くらいは居座っているらしい。 獣で済めばいいが、何しろ古代の遺跡だ。 それ以上にやっかいなものがいてもおかしくない。

(牛頭、巨大ムカデ、魔族みたいなシロモノ…ここから出てきたのか?)

そう考えるのが、一番しっくり来そうな気がする。 となると、エルフェのいる場所まで行く途中には、同じような物がいると考えるのが妥当だろう。 エルフェが扉を開ける事が出来なかったのは、逆に幸運だったとも言える。

(日も低くなって来た。 今日は無理をせずに、野営した方がよさそうだ)

ちらりとアルフィスの方を見る。 彼女の表情は、憔悴しきっていた。

(気軽に何度も何度も使えるほど、手軽なもんじゃないって事か)

感覚の範囲を可能な限り広げてもらった結果、アルフィスは昨日と同じように昏倒してしまっていた。 しばらくして意識を回復したが、とても即座に行動出来る様子ではなかった。 それでもすぐに動きたいと言って聞かないのを、なんとかなだめて休ませたものの、そう時間が経たない内にまた同じ事を言い始めた。

「本当に中に入れる場所があるのか、それだけは確認したいんです。 それが確認できれば、レイギンさんの仰るとおり休みます」

仕方がないので移動する事にし、その旨をエルフェに伝えておく事にした。 アルフィスの言う入り口からエルフェのいる場所に向かうにしても、時間はかかる。 その上、アルフィスは消耗し切っている。 間違いなく休ませる必要があった。 十分休ませたとしたら、夜になってしまうだろう。 そんな時間帯の行動は避けたい。 となると、一晩野営する事になる。 それだけの間エルフェを待たせる事になるのに、何も伝えないという訳にはいかなかった。

(じゃあ、明日のお昼くらいには、助けに来てくれるのかしら? 大丈夫よ、待つわ。 でも…)

エルフェの思念には、仕方がないという思いが込められていた。

(絶対に助けに来てよ! 来てくれなかったら、化けて出てやるから!)

彼女は冗談めかして締めくくっていた。 助かるとの確信が、彼女の心に余裕を持たせたのだろう。

(それにしても…侏儒が利用していた遺跡といい、こいつといい…何なんだここは?)

中途半端に離れた場所に、二つの遺跡があるのが腑に落ちない。

(まぁいいか。 俺は学者先生ってわけじゃない)

程なくアルフィスが東に向うように指示を出し、そちらに進路を変えた。 緩やかな下り勾配になっている。
進んで行くと、進路が途切れている場所が目に入った。 下り勾配でこう見えるという事は、比較的大きな段差があるという事だ。 その場所を迂回するため、少し進路を横にずらす。 進むにつれ、段差の様子が明らかになってくる。

「…ここか?」

段差を横から見ると、斜面にぽっかりと穴が開いていた。 高さは3クルート弱(約3.5m)、幅は約2クルート(約2.4m)。 一見すると洞窟のようだが、アーチ状の穴で、明らかに石で組まれている。
レイギンは穴の前に移動すると、地面に積もる落ち葉を払ってみた。 暫くして、堅く平たい石の層に突き当たる。 周囲の落ち葉をさらに払ってみると、石畳に間違いなかった。
改めて、穴の方を見てみる。 所々崩れていたり、上の方は土がかぶっているところを見ると、最初は完全に土に埋もれていたのかもしれない。

「間違いないです!」

突然の声に振り向くと、アルフィスがすぐ後ろに来ていた。 焦燥しきった様子ではあるものの、表情は妙に高揚している。

「この通路を進んで行くと、大きな円形の部屋があります! さぁ、行きましょう!」

何かに取り憑かれているように、アルフィスはふらふらと奥へ進んで行こうとする。 レイギンは慌てて、彼女の腕を掴んだ。

「そんな状態で行ってどうする。 この先には、脅威が存在する可能性がある。 まずは休んでからだ」

彼のその言葉が、アルフィスに届いたかどうか判らなかった。 腕を掴まれた事で彼女の体はつんのめり、そのままレイギンの方に向って倒れてしまう。

「あ…」

その言葉を最後に、アルフィスは意識を失った。

「疲労が極致に達したせいで、妙に高揚してたか…」

先程の彼女の様子は、そのせいだったのだろう。

「自分で目を覚ますまでは、寝かせておくか」

レイギンは誰に言う事なしにそう呟くと、アルフィスの体を地面に横たえた。






村長の家、集会のための部屋に、十数人の者達が集まっていた。 皆一様に厳しい表情をしており、誰も言葉を発しない。

「帰って、来ねぇな…」
「ええ…」

憮然とした表情で酒場の主人が呟き、感情のこもっていない声で村長が返す。
時刻は、8の刻(午後8時)を回ろうとしていた。

「村長…あの二人、帰ってこないけど…」

おずおずと、一人の若者が切り出した。 心境は皆同じなのだろう。 明らかに焦れている。
これ以上は待てないと判断し、村長は口を開いた。

「何か事情があるのでしょうが、レイギンさん達が帰って来ない以上仕方ありません。 暫定での対策を立てましょう」
「あくまでその場しのぎだ。 ムチャな事を言い出すんじゃねぇぞ!」

あぐらをかき、腕組みをして酒場の主人が言う。 とは言え、その言葉にどれだけの効果があるかは判らなかった。

「まず、侏儒の集落の位置ですが、私達の足では2刻半(約5時間)はかかると思っていいでしょう」

村長はそう切り出すと、目の前に一枚の地図−侏儒の住処と、その周辺の地形の見取り図−を床に置く。

「この上り坂を損害なしに登り切っても、住処の建物の前は広場になっています」

説明しながら、村長は地図を指し示す。 誰も言葉を発さず、黙って彼の言葉を聞いていた。

「威嚇で済めばそれに越した事はないのですが…どこまでどうするかは、考えておいた方がよいでしょう」

どう意見したら良いのか判らないのか、口を開く者はいなかった。
村長は困った顔をする。

「戦える方が先頭に立って下さると良いのですが、この村には…」

村長は、酒場の主人の方を向く。
悪い予感を感じつつ、酒場の主人は黙って続きを促した。

「この村で戦いの経験がある方は、あなただけです。 先頭に立って頂けますか?」

酒場の主人は、黙って頷く以外になかった。







珍しく、すっきりと目が覚めた。 ここ数日続いていた、妙な夢を見なかったせいかもれない。傍らを見ると、焚き火の跡らしきものが目に入った。
アルフィスは上半身を起こし、顔を上げる。 夜明けから、少し経ったくらいだろうか。 木漏れ日の差す中、小鳥達のさえずりが耳に入ってくる。 背中が少し痛い。 また倒れてしまったのだろうか?

「目が覚めたか?」

いつの間にか、近くにレイギンが来ていた。 彼女が目覚める前から起きていたようだ。

「ここは?」

まだ少し頭がぼぉっとしているが、訊いてみる。 火打ち石で焚き火に日をつけようとしながら、レイギンが答えた。

「エルフェがいる場所へ続く道の入り口さ。 アルフィスが場所を教えてくれたろう?」

そこまで言って彼は、怪訝そうに自分の方を見た。

「覚えていないのか?」

そう言われると、確かにそんな気がする。 確か、入り口と思われる場所までレイギンを誘導して来た覚えはあるのだが…その部分はどうにも記憶が曖昧で、はっきりしない。

「まぁ、いいさ。 それより、気分はどうだ?」

心配そうにレイギンが訊いて来る。 体は軽い。 意識もはっきりしていた。
彼女の様子からそれを感じ取ったのだろう。 レイギンが笑いかけてくる。

「体調は良さそうだな。 朝メシが終わったら、お姫様を助けに行くぞ」

『お姫様』とは、エルフェの事を指しているのだろう。 いよいよ、彼女を助け出す時が来たのだ。

「はい!」

軽い緊張を感じながら、アルフィスは身を起こした。







手に手に武器を持った者達が、山道を進んで行く。 武器とは言っても、農作業用の鎌や鋤、ただの棒など、お世辞にも武器とは言い難いものばかりだ。
そちらをちらりと振り返ったが、酒場の主人はすぐに視線を前に戻す。 彼は、集団の先頭に立って歩いていた。

(勝てる気がしねぇ…)

彼は、刃渡り1クルート強(約1.5m)の長剣を手にしている。 長年使って来た、そして、もう長い事使っていなかった剣だ。
まともに武器と言える物を手にしているのは、集団の中では彼だけだった。

村人達の数は、およそ50。 先頭に立ってはいないものの、村長も後に続いている。 実質相手にしなければならない侏儒の数は30程度との事だが、そもそも、侏儒の住処は城のような建物だと言う。 いくら相手にする数が少ないとは言え、こんな人数で城攻めが出来るとは思えなかった。

(様子見だけでこいつらの気が済んでくれればいいが、そうは行かねぇだろうな)

村長の話では、レイギンは侏儒が夜行性ではないかと言っていたそうだ。 となると、日のある内に何かしらの決着を着ける必要がある。

侏儒の住処に着いた時、どう戦い、どう引くべきか…。

酒場の主人は、暗澹たる思いで進む先を見た。








魔法の光が、周囲を照らしている。 アルフィスが作った光だ。 周囲は床、壁ともに石組みで、間違いなく人の手によって作られたものだった。 時々床に瓦礫が転がっているが、全体的に見て保存状態は良い。
長い通路が、真っ直ぐに西に向って続いている。 アルフィスの話では、この先に扉がある筈だ。

レイギン達は、無言で通路を進んで行く。 周囲の音は、彼らが発する微かな足音だけだった。 何が現れても即座に対応出来るように、レイギンは既に剣を抜いている。 左手に持つ真っ黒なその刀身が、魔法の光を受け、長い影を伸ばしていた。

程なく、通路は行き止まりになっていた。 巨大な両開きの扉があり、右側が半開きになっている。そんな状態でも、二人が通るのに十分な大きさだ。

「慎重にな」

半ば自分に言い聞かせるように、レイギンは小さく呟く。 アルフィスが小さく頷いたのが、空気の動きで判った。

「行くぞ」

レイギン達は、ゆっくりと扉をくぐった。 部屋の中が、魔法の光に照らされる。 何かが、部屋の中央と思われる場所にいた。 大きい。 牛程の大きさがあるだろうか。 身じろぎもせず、こちらを見ているようだ。

(あれか)

レイギンは、部屋の中に一歩踏み込む。
巨大な獅子が、彼に向ってうなり声を上げた。





「アルフィス! 退がってろ!」

言うなり、距離を詰めようとレイギンは駆け出した。 獅子のすぐ近くの空中に、青白い光の球が浮かび上がる。 その光に照らされ、獅子の全身が見えた。 蝙蝠の羽と、巨大な蠍の尻尾。 ただの獅子ではない。

(マンティコアとか言う合成魔獣か!)

初めて戦う相手だが、やっかいな相手だとは聞いていた。 獅子の俊敏さと力を持つ上、巨大な蠍の尻尾は飾りではない。 強烈な毒を持つと言う。 その上、魔法まで使いこなすらしい。 どの程度強靭な生命力を持つかは判らないが、長期戦になる可能性がある。

魔獣の傍らの光が、すっと細長く形を変えた。 まるで矢のように、すさまじい速さでこちらに向ってくる。 かわす事は出来そうに無い。 そもそも魔法の矢だ。 いくら避けても、間違いなくこちらに突き刺さる。

(消え去れ!)

思念を光の矢に叩きつける。 光の勢いは弱まったが、完全に消し去る事は出来なかった。
レイギンの体に、光の矢が突き刺さる。

(こんなものはこけ脅しだ!)

痛みを感じつつ、再び思念を叩きつける。 完全に消し去る事は出来なかったとは言え、威力を弱める事には成功したようだ。 命を直接削り取られるような感覚に襲われるが、大した強さではない。 何発も喰らえば致命傷になりかねないが、単発ではそう大したものではないようだった。 ただしそれは、攻撃魔法への対処に慣れているレイギンだからこそ出来た話だ。並みの者では、一撃で昏倒してしまっていてもおかしくない。

「レイギンさん、横に!」

アルフィスが叫ぶ。 反射的に、レイギンは飛び退いていた。 横目に、アルフィスが魔獣に向けて両手を突き出したのが目に入る。 不可視の力が魔獣を捕らえ、その体が少し後ずさった。 魔獣が叫び声を上げる。

その隙に、レイギンは魔獣との距離を詰めようとしていた。 あと3クルート。 しかし、魔獣も何もせずに見ていた訳ではない。 突然レイギンの周りの床が盛り上がり、人の形を取る。

(ちっ! 石人形か!)

その数は5体。 身長2クルート(約2.5m)を越す巨体が、レイギンを取り囲んでいた。

(厄介なシロモノを!)

思いながら、剣を一閃する。正面の一体、その右肩から頭にかけてずれが出来た。 右腕と頭が地面に落ち、ごとりと音を立てる。 しかし、まだ動く。
石人形の戦闘能力自体は、そう大した事はない。 しかし、問題なのはその強靭さだった。 上手い具合に破壊しない限りは、とにかく動く。 魔法によって一時的に作り出された存在のため、持続時間が過ぎれば元の床に戻るのは判っていたが、悠長にそれを待っている訳には行かなかった。 レイギン一人ならそれでもいい。 しかし今は、アルフィスがいる。

ちらりとアルフィスの方を覗うと、彼女は魔獣の方を見据えたまま、短剣を右手に横に走っていた。 その傍らに、光の矢が浮かぶ。 彼女が左手を突き出すと同時に、光の矢が走る。 それは魔獣に突き刺さったが、威力を弱められたようだった。 たいして効いているようには思えない。 魔法によって作り出された合成魔獣だけに、魔法への耐性が強いのだろう。

「マトモにやりあうな!」

レイギンは叫び、ゆっくりと突き出された石人形の腕をかわした。 そこに一撃を叩き込む。 石人形の腕が落ちる。
即座に振り向くと、軽く飛び上がり、後ろから彼に迫ろうとしていた一体の頭に剣を叩きつけた。

(くたばれ! でくのぼう!)

力と共に、思念を叩きつける。 石人形は頭から真っ二つにされ、わずかな間微かに動いていたが、すぐに動かなくなった。

(まずは、一つ!)

残りは4体。 最初に右腕と頭を切り落とした1体と、腕を落とした1体を勘定に入れると、実質3体というところか。
レイギンはアルフィスと魔獣の方に向き直りつつ、今倒した一体の位置に体を滑り込ませた。 こんな奴等は、後でどうにでもなる。 本命は魔獣の方だ。 アルフィスと魔獣が直接やりあう事になっては、おそらく彼女に勝ち目はない。
魔獣は、アルフィスとの距離をかなり詰めていた。 もう少しで魔獣の間合いに入るだろう。
レイギンは左肩の肩当てに右手を突っ込み、中に仕込まれたナイフの柄を指の間に挟み込んだ。

「お前の相手はこっちだ!」

魔獣の注意を引くためにそう叫びながら、レイギンは2本のナイフを放った。 魔獣がこちらを向く。 一本は左の翼に突き刺さったが、一本は叩き落された。

「俺が行くまで、距離を取れ!」

同時に叫ぶ。 しかし、アルフィスはレイギンの指示には従わなかった。 指示を聞く余裕がなかったのかもしれない。 彼女は魔獣に向って一歩踏み込むと、右手の短剣を振り上げた。

初めての実戦にしては、申し分のない一閃だった。 しかし、相手が悪かった。

魔獣はその一撃を右に体をひねって避けると、体勢を戻す動きを利用して右の前足をアルフィスに叩きつけようとする。彼女は避けようとしたが、魔獣の前足は彼女の左肩を捉えていた。

衝撃によろめいて2,3歩後ずさった後、彼女はがくりと膝を折る。 追い討ちとばかりに、魔獣が距離を詰めた。 魔獣が左足を斜めに振り上げる。 アルフィスは防ごうとしたようだが、その一撃を受け流す事は出来なかった。

「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

悲鳴と共に、彼女の体が宙を舞う。 右の肩当てが外れて石の床に落ち、甲高い音を立てた。 一瞬遅れて、アルフィスの体が床に叩きつけられる。 背中からまともに落ち、後頭部を打ったようだ。 彼女は気を失ったらしく、そのまま動かなくなった。

魔獣が、レイギンの方を向いた。

「くそっ!」

アルフィスを部屋の外で待たせておけば、こんな事にはならなかった筈だ。 レイギンは後悔したが、今は魔獣を倒す方が先だ。
幸い、彼女を仕留めたと思ったのか、魔獣の注意は自分の方に向いている。 早いところこいつを始末し、アルフィスの手当てをしなくては…。

レイギンは、魔獣に向って駆けた。 魔獣も、ゆっくりと彼の方に向ってくる。

突如、強烈な気迫がレイギンを襲った。 思わず立ち止まってしまう。 魔獣にとってもそれは同じだったらしく、彼と同様に立ち止まっている。 魔獣が身を低くし、レイギンとは別の方向を向いた。

(なんだ!?)

レイギンは、魔獣が見ている方向を見た。

「もう…痛いじゃない…」

アルフィスが、ゆらりと立ち上がった。







魔獣が、低いうなり声を上げた。 身を低くし、アルフィスに向け威嚇とも警戒とも取れる態度を取っている。

唇の端をぬぐうと、彼女は口を開いた。

「おかしいわね…わたしはまだ、出て来れない筈なのに」

声自体はアルフィスのものに間違いない。 ただ、声の表情はまるで違っていた。 この状況をなんとも思っていない…状況が把握出来ていないわけではなく、把握した上で普通と感じているような口調だった。

彼女が、魔獣の方を向く。

「今は、あなたみたいなものもいるのね」

その口に、不敵な笑みが浮かんだ。再び、強烈な気迫がレイギンを襲う。

「ぐっ!」

思わず、レイギンはうめき声をもらしてしまった。 並みの者であれば、気絶してもおかしくない程の気迫だ。

(俺が…気圧されている!?)

レイギンは愕然とした。 自分を尻込みさせるほどの気迫を放てる者など、滅多にいない筈だ。 言い換えれば、アルフィスは彼以上の強さを持っている事になる。

(アルフィス、お前は一体…)

はっとした。 自分や合成魔獣は、精神があるからこそ気圧される。 しかし、魔獣の作り出した石人形たちに精神はない。 アルフィスの気迫に関係なく行動できる筈だ。

(しまった!)

動く事を拒否する体に鞭打ち、なんとか石人形たちの方に向き直る。

レイギンは、再び愕然とした。

石人形たちもまた、動きを止めていた。 正確には、動こうとはしているらしい。 しかし、見えない縄でがんじがらめにされたように、ぎこちなく小さな動きしか出来ないでいる。 レイギンの方に向おうとしているようだが、まるで進む事が出来ていない。

アルフィスは、石人形たちに気が着いたようだった。 しかし、興味なさげに一瞥しただけで、そちらに右手をかざす。

「邪魔ね」

起きた事が信じられなかった。 石人形たちは人のかたちを取る事が出来なくなり、溶け落ちるように床に吸い込まれて行った。 後には、何も残っていない。

(桁違いの魔力だって事か!?)

以前ティムに尋ねた事がある。 石人形のように魔法で作られた擬似生物は、まともに相手をするよりも、術を解除してしまった方が楽に倒せるのではないか、と。
ティムの答えは、「相当に魔力の差がないと、そう簡単には行かない」との事だった。一度擬似生物として動き出してしまったものは、魔法の効果が切れるまで、存在しようとし続ける力を強く持つらしい。 その上に術者の魔力が上乗せされるので、術を解除するのは相当にやっかいな事なのだそうだ。 もし彼の言葉が正しいならば、そんな難易度の高い行為を、アルフィスは事も無げにやってしまった事になる。 しかも、相手は一体ではない。 どれだけの魔力があれば、そんな事が出来るのか。

アルフィスは、石人形たちを元の床に戻せると確信していたのだろう。 そちらの方を一瞥もせず、かざした手を元に戻す。
合成魔獣が身を低くし、警戒のうなり声を上げた。

「ねぇ」

アルフィスが合成魔獣に呼びかける。

「わたしたちに何もしないなら、見逃してあげてもいいわ」

言いながら、彼女はゆっくりと魔獣に向けて歩いて行く。『不敵』と表現するに相応しい態度だった。 魔獣がじりじりと後ずさりして行く。

「ずっとここを守っていたのかしら? はるか昔から…その気持ち、少しわかるわ。 だから…わたしたちに何もしないなら、見逃してあげる」

今や、アルフィスの方が完全に上に立っていた。 魔獣は明らかに彼女を恐れている。 本能的に力の差を感じ取っているのだろう。
魔獣は低いうなり声を上げながら身を低くしていたが、やがて彼女の言葉を拒絶するように大きく吼えた。

「そう…残念ね」

魔獣に向け、すっ、と彼女は右手をかざす。
魔獣がさらに身を低くした。

何も起こらなかった。

アルフィスは怪訝そうに自分の右手を見た後、困ったように顔をしかめる。

「もう…肝心な時にこうなんだから…」

どうやら彼女は何かしようとしたようだが、上手く行かなかったらしい。 困った表情のまま、魔獣の方を見もしようとしない。
その隙を突こうとしたのか、魔獣が彼女に向けて飛びかかった。

同時に、アルフィスが一旦身を低くし、剣を凪ぐように左手を振り上げる。
青白い光が、彼女の左手を包んだ。

巨大な光の剣のようだった。

一瞬にして魔獣は真っ二つにされ、地面に落ちて転がる。

興味なさそうにそちらを一瞥すると、アルフィスはレイギンの方を向いた。 不満そうな表情を浮かべている。

「もう…ちゃんと守ってくれなきゃダメじゃない!」

そうは言いながらも、彼女はどことなく嬉しそうだった。









アルフィスがゆっくりとこちらに近づいてくる。 一見隙だらけのようだが、一分の隙も無い。 その様はまるで、歴戦の勇士のようだった。

(くそ、体が…)

今のアルフィスは、先程のような強烈な気迫を発していた訳ではなかった。 だが、気に当てられた後遺症とでも言えばいいだろうか。 レイギンの体は、動く事を拒否していた。

「そんなに恐がらなくてもいいでしょ。 最初に会った時は平気だったじゃない」

彼女はぷくっと頬を膨らませる。 そういった仕草も、なんとなくアルフィスらしくなかった。 今まで接してきたアルフィスと比べて、幾分幼い印象を受ける。

彼女はふと何かに気付いたような表情になり、一瞬歩みを止めた。

「そっか。 最初に会った時は、もう慣れてたんだ。 だから平気だったのね」

言っている事がめちゃくちゃだ。 「最初」に会った時に既に慣れていたというのなら、「今」のレイギンは慣れていないという事になる。 レイギンにとっては「今」が「最初」だし、そもそも彼女の言葉からは、「最初」が「今」よりも後に来ているようだ。時系列が明らかにおかしい。

そんなレイギンの様子を見て、アルフィスは寂しそうな表情をする。

「まだ、わたしの事を知らないレイギンなのね…」

今や、彼女はレイギンの目の前まで来ている。
アルフィスは右手をレイギンの頬に当てると、愛おしむような表情になった。

「でも、レイギンだ。 わたしの事を知らなくても、やっぱりレイギンだ」

彼女が何を言っているか、さっぱり判らない。 周囲に危険がない状況なのはありがたかったが、アルフィスが何を言っていて、何をしようとしているか掴めなかった。 一昨日の夜と同じだ。

レイギンは、必死で状況を整理しようとした。

(そもそも、このコはアルフィスなのか?)

何かのきっかけで全く別人のようになり、元に戻った後は何も覚えていない者が稀にいると聞く。 それだろうか? もしそうなら、アルフィスとして接するのは間違いかもしれない。

「アルフィス…なのか?」

レイギンは思わず訊いてしまう。 アルフィスは、嫌そうな顔をした。

「またその名前…でもいいわ、その名前で。 レイギンがそう呼びたいのなら」

表情から察するに、嫌がってはいるが許容出来なくはないようだ。 こんな反応をするという事は、「アルフィスでないわけではない」くらいが正解だろうか。

(そういえば、アルフィスは本当の名前じゃなかったな)

彼女の言葉や態度から察するに、本当の名前で呼べという事なのだろう。 そうは言ってもレイギンは彼女の本当の名前を知らないし、教えてくれようとしたのも断った。

(本当の名前で呼ばれたら、こうなるって事か?)

あり得なくはないかもしれない。 本当の名を隠しているのは、単に第二王妃の手の者の目を逸らすためだと思っていた。 だが今となっては、アルフィスの中の別の人格が目覚めてしまうのを防ぐためのようにも思える。

(いや、それはそれでおかしいか)

もし別の人格を植えつけているのなら、そんな簡単な方法で解除出来るのだろうか? そもそもアルフィスは、本当の名前をレイギンに教えようと申し出ていた。 話の辻褄が合わない。

(そもそも、どうしてこうなった?)

そういえば、さっき派手に頭をぶつけていた気がするが…。
その考えを見透かされたのか、アルフィスの表情が不機嫌さの度合いを増した。

「今、頭を打っておかしくなったって思ったでしょ?」

もう少し不機嫌の度が進めば、本気で怒り出しそうな気がした。

「気を失ったせいでわたしが出てきたのは、たぶん間違いじゃないけどね」

その事実を認めたくないのか、彼女はぷいと横を向く。
自分の事をアルフィスとは別の存在のように言う所を見ると、やはり彼女とは別の人格なのだろうか?

「アルフィスじゃないのか?」
「アルフィスと言えばアルフィスだし、そうじゃないと言えばそうじゃないわ。 ともかく…」

アルフィスはそう言うと、右手でレイギンの胸をぽん、と押した。

「思ってた通りに、わたしはレイギンに会えた。 これから先もレイギンと一緒にいられる。 なんにも問題はないわ!」
「問題ないのか?」

レイギンは訊いてみる。 彼女は問題ないと言っているが、現時点ではレイギンの方に問題がありそうだった。 何しろ、彼女の言っている事がさっぱり判らない。
とは言え、事情を説明してもらえば、これから先は問題なくやって行けそうな気もしていた。

アルフィスは呆れたようにレイギンを見ると、今度は困ったように軽くため息をつく。

「もう! まどろっこしい…問題ないに決まってるじゃない! これでいいの! 問題なんて…」

そこまで言って、突然彼女の表情が凍りついた。 今初めて重大な問題に気付いたと言うべきか、大問題を思い出してしまったというべきか…そんな顔をしていた。

「問題、ありまくりだわ…これでいい訳ない…こんな筈じゃない…」

搾り出すような声で彼女は呟く。 どうやら、相当大きな問題らしい。 問題のあまりの大きさに、思考すら停止してしまった様子だ。 彼女はおろおろし始めた。

「どうしよう!? ねぇ、どうしたらいいの!?」

レイギンの胸にすがり、彼の目を覗き込みながら、アルフィスは訴えた。 助けてくれと言わんばかりの表情になっている。 そうは言われても、レイギンとしてはわけが判らない。 答えようがなかった。

「せめて、事情を説明してくれないか? 少しは助けになれるかもしれない」

アルフィスは、泣き出しそうな表情でかぶりを振った。

「ダメなの…わたしはここで、そんな事をしていない筈なの。そんな事をしたら、わたしはレイギンと出会えなくなるかもしれないの!」

ますますわけが判らない。 今現在、こうして一緒にいるのに、「出会えなくなるかもしれない」とはどういう事か。

(それにしても、「そんな事をしていない」か。 また、過去の話をしているみたいな事を言い始めたな)

レイギンははっとした。 一昨日のアルフィスの妙な挙動の原因を考えた時、それを支持する推論に行き当たったではないか。

(未来を見る力…本当にそうなのか!?)

今までの彼女の言動が、彼女が見た未来に基づくものだったとすれば、ある程度説明はつく。 ならば、「そんな事をしていない」は、ここで事情を説明しなかったという事になる。いや、判断に戸惑っているところを見ると、細かい部分までは見る事が出来ないのかもしれない。 事情を説明したかどうかを知らない事も考えられる。

(まいったな…)

自分がこうして困惑しているのも、彼女が知っている道筋に沿ったものなのだろうか? どう行動するのが正解なのか、全く判断できない。 いっその事、成り行きに任せるのが正解かもしれない。
アルフィもまた、身動きが取れずにいるようだ。 極度に困惑した表情が、彼女の心境をありありと示していた。

お互い何も言えず、時間だけが過ぎていく。

長い沈黙の後、アルフィスは意を決した表情になって口を開いた。

「決めた!」

背筋をしっかり伸ばすと、彼女はレイギンを正面から見据える。ついさっきまでの、うろたえていた彼女とは別人のようだ。

「これでいい事にする! 問題なんてない! なんにも問題なんて…」

そこまで言った所で、アルフィスの体がぐらりと傾いた。そのまま、彼女は片膝をついてしまう。

「大丈夫か!?」

アルフィスは地面に右手を着き、左手を顔に当てていた。眩暈でもしているのだろう。
レイギンはしゃがみ込むと、彼女の顔を覗き込もうとした。

「大丈夫よ…いえ、大丈夫じゃないかも…」

強がりなのか、自分のコンディションを正確に把握しきれていないのか、どちらなのか判らない。
弱々しい声で、彼女は付け加えた。

「こういう事だったのね…」

アルフィスは、今にも倒れてしまいそうだった。 彼女の体を支えるため、レイギンはその両肩に手をやる。
彼女は、レイギンの目をじっと覗き込んできた。

「わたしの体、なんだかおかしいみたい…」

彼女は苦笑する。 その表情を作るのすら、精一杯の様子だ。

「ねぇ…レイギン…お願いしていい?」

レイギンは、黙って頷き、続きを促した。

「わたし、こんな調子だから…また、こんな事になっちゃうかもしれないから…」

アルフィスの様子から、言葉を続けるのすら難しい事が見て取れた。
そして、何を頼まれるのか、なんとなく予想がついた。

レイギンが自分の頼みを察したのを感じ取ったのだろうか、アルフィスは微かに笑った。

「アルフィスだけでなく…わたしも…守って」
「ああ。わかった」
「わたしの事…まだ…知らなくても…やっぱりレイギンだ…嬉しい…」

今度は、にっこりと笑う。
しかし、そうするのが精一杯だったのだろう。 アルフィスの頭ががくりと垂れた。完全に意識を失ってしまったらしい。

(こっちのアルフィスも危なっかしいな。 確かに、守ってやる必要がありそうだ)

思いつつ、レイギンはアルフィスを床に寝かせる。

そこまでした時、合成魔獣のいたあたりに、何かがある事に気が着いた。光の球が浮いている。その中に、うっすらと細長いものが見て取れた。

レイギンは、そちらの方に近づいて行った。ぼんやりとした光が周囲を照らしている。直感的に、危険なものではないと判った。レイギンは光の中に左手を突っ込むと、中心にある細長いものを掴む。堅い感触が皮手袋ごしに伝わってきた直後、光が爆発した。思わず目を瞑ってしまう。目を開くと、何事もなかったように光は消え去っていた。

レイギンは、掴んだものを見た。 華美な装飾が施された、大きな鍵だった。合成魔獣を倒した報酬とでもいうのだろうか? これではまるで見世物だ。

(見世物?)

はっとして、周囲を見渡す。 アルフィスが作った魔法の光のおかげで、周囲にある高い壁の上の様子がおぼろげながら判る。
横に長い細長いものが、上下に等間隔で並んでいるようだ。 ところどころ、人が1,2人通れるくらいの隙間を隔てて、横方向にも並んでいる。 おそらくあれは観客席…その見方が正しいとすれば、ここは闘技場だったのだろう。敵を倒して鍵を手に入れた闘士は、先に進む事が出来る。 となると、この鍵を使う場所がどこかにある筈だ。それを探して周囲を見渡す。

南の方角、高い壁となっている一部に、周囲の壁とは色が違っている場所があった。 大きい。 3クルート四方くらいだろうか? おそらくあれが扉だろう。

「魔物を倒して姫君とご対面、ってわけか」

思わず、舌打ちが漏れる。扉の先、エルフェのいる場所までは、そう距離は無い筈だ。 おそらくそこまでに脅威はない。 彼女のいる場所は、栄光の間とでも言える場所なのだろう。

「まずは、アルフィスの方か」

レイギンは、床に横たわっているアルフィスの方に歩いて行った。






「アルファ1よりアルファベースへ。敵部隊の殲滅、終わったわ。わたしの感覚が正しければ、周囲約5km以内に敵はいないみたい」

ヘッドセットのスイッチを入れると、感情のこもっていない声でそう言った。

「お疲れ様。よくやったわ」

エミルがねぎらいの言葉をかけてくれる。しかし、気分は暗澹としていた。

(どこが『若干の』調整不足よ…)

声には出さなかったものの、心の中で毒づかずにはいられない。

彼女は、自分の両手を見た。自分が殺めた者達の血で、赤黒く染まっている。 戦闘開始から、ものの数分しか経っていない。

いや、数分もかけてしまった。

泥臭い戦い方になってしまった。
生体荷電粒子砲が、とまでは言わない。せめて生体レーザーだけでも機能してくれれば、素手で全員を相手にするような事にはならなかった筈だ。問題なく機能する筈だったそれらは、機能してくれなかった。
全く機能しなかった、という訳ではない。機能する素振りは見せたのだ。しかし、発射までは出来なかった。実装はされているようだが、調整が完全ではないらしい。

最初は、高次元セグメントに配置された能力が機能していないのかと思ったが、そうではないようだ。

機能した能力を思い出してみる。まずは、強化された身体能力。これは全く問題なかった。実際、自分は素手で6人の『敵』を相手にしたが、全滅させるのに何の苦労もなかったのだ。ただしこれは、あくまで彼女自身の体に付加された能力−通常次元セグメントでの話−なので、同じように考えるべきではないかもしれない。
次に、斥力障壁の展開。これも問題なく行えた。それを応用して、腕を中心にブレード状の力場を発生させるのも上手く行った。この能力は、高次元セグメントに配置されている。出撃前に試してみた、索敵能力に関してもそうだ。 生体荷電粒子砲や生体レーザーもまた、高次元セグメントに配置されている。

そう考えてみると、高次元セグメントに配置された能力の一部が正常に機能していない事になる。機能不全なのか、自分が扱いに慣れていないだけなのか、どちらなのかは判断できない。

(どっちにしても、対策はしなきゃ)

『敵』は無数にいるのだ。いちいち一人ずつ倒して行ったのではきりがない。

思わずため息がもれた。今回機能しなかった能力が今後も使えないなら、ずっと同じような戦い方をしなければならないだろう。それでは、本当にきりが無い。

とはいえ、ここであれこれ考えていたところでどうしようもない。そう思い、施設に戻る事にする。念のため、改めて索敵を行ってみた。特に気になる反応はない。

「もう敵はいないみたい。戻るわ」

ヘッドセット越しにそう告げ、きびすを返す。

その瞬間、視界がぐらりとゆがんだ。

(えっ!?)

ゆがんだ世界は、すぐに元通りの姿を取り戻した。
最初は、何が起きたのか判らなかった。少しして、それが眩暈だったと気付いた。

(どうして!?)

何が起こったのかは判ったが、何故それが起こったのかは判らない。

再び、眩暈が襲って来る。今度は元に戻ってくれない。たまらず、彼女は膝をついた。

「アルファ1よりアルファベースへ。自分では…帰れそうに…ないわ。迎えに…来て…。」

なんとか通信機のスイッチを入れ、そう告げる。返信はよく聞こえなかった。何か言っている事は判るが、何を言っているのか理解できない。だんだんと、意識が遠のいていく。

(まさか、わたしの体は…)

嫌な予感が頭をよぎる。自分は6人の敵を相手にして、ものの数分で全滅させた。その間、超人的な能力を発揮し続けた。しかしそれは、逆に言えば…自分がその能力を発揮できたのは、ものの数分の間でしかなかったという事にもなる。

(なんて事…)

外れている予想だと思いたい。行動時間がたったの数分では、あまりにも脆弱すぎる。

(調整が不十分だったから?)

それならば、まだ望みがある。能力付加には成功しているのなら、調整にはそれほど時間を要しないだろう。施設に帰ったらすぐにでも、調整してもらえばいい。だが、単なる調整不足でないのなら…。

意識はどんどん遠のいて行き、不安の感情すらおぼろげになって行く。

突然、首筋に冷たい感覚が走った。

「あっ!?」

思わず声を上げてしまい、目が開く。
周囲は薄暗かった。 何故自分は、こんな所にいるのだろう? 意識を失った後、施設内で目覚めたという事だろうか? それにしては、そんな雰囲気ではない。

「気が着いたか?」

声がかけられる。

(レイギンさん!?)

若干の混乱の後、アルフィスは自分が今までどうしていたかを思い出した。 魔獣の攻撃をまともに喰らい、吹き飛ばされたのは覚えている。 地面に叩きつけられ、頭を打ったような気がする。 その後は…どうなったのだろう?

(わたし、頭を打って…気を失ったのかしら?)

そこまで考えた時、なんだか肌寒い事に気が着いた。 この場所の気温が低いのだろうか? そんなに気温の低い場所ではなかったような気がするのだが…。

疑問に感じながら、アルフィスは視線を下に向ける。

最初に目に入ったのは、自分の臍だった。

(どうして、おへそが…)

はっとして、胸や肩の方を見てみる。 明らかに、下着しか着けていない。

「ちょ、ちょっと、どうして…」
「動けるか?」

声をかけられ、自分が一人ではない事を思い出した。

「あ、あ、あ、あわ、あわ…」

意味不明な言葉が口から漏れた。 顔が赤くなって行き、耳まで真っ赤になる。

「きゃぁぁぁぁぁぁあぁっ!!!!!」

黄色い声が、周囲に響き渡った。








「み、み、み、見たんですか!? な、何かしたんですか!? 何をしようとしてたんですか!?」

動転し、ありったけの大声でアルフィスは言葉をぶつける。
呆気に取られたのか、レイギンは一瞬きょとんとした表情をしていた。 しかし、すぐに何事もなかったような表情に戻り、アルフィスの質問に答えた。

「ああ、診たな。 頭と首・肩に酷い打撲を負っている可能性があったから、そこは触診してみた。 問題はなさそうだ。 何をしようとしていたかと訊かれると…そうだな、首、肩、あと打撲の可能性がある箇所に、湿布を当てようとしていた所だ」

そこまで言って、レイギンは呆れたようにため息を着く。
彼はくるりと背を向けると、その場にあぐらをかいた。

「その調子なら大丈夫そうだな。 もし今使えるなら、念のために治癒魔法をかけておけ」

背を向けたまま、そう言う。

「どうしてですか? わたし、大丈夫です」
「頭は痛まないか?」
「あたま?」

レイギンの言葉をなぞるように、アルフィスは右手を頭に当ててみる。 痛みはなかったし、特に気になる感触もなかった。

「派手に頭をぶつけてたからな。念のためだ」

なんとなく、今の状況に合点が行った。 おそらく自分は、その時に気を失ったのだろう。 レイギンが自分の全身を調べたり、湿布を当てようとしていたのもそのせいらしい。 彼が心配するほどの状態だったのなら、治癒魔法をかけておくように言われたのも納得できる。

「でも、服を脱がさなくっても…」

毒づくようにアルフィスが呟くと、呆れ返った言葉が返って来た。

「俺は聖職者でも魔法使いでもないんだぞ。 服を脱がさずにどうやって診断するんだ」
「…言われてみればそうですね」

特にアルフィスの場合、一番ありそうだったのは打撲や外傷だ。 魔法を使わずに診察・治療しようとすれば、服を脱がして調べる以外に無かったのは判る。

(でも…)

まだ少し釈然としなかったが、アルフィスはその感情を無理やり追い出した。精神を統一し、戦いの女神リーライナに向けて念を送る。 体がやわらかい光に包まれ、安堵感が心を満たした。 リーライナの聖職者にとっては、初歩的な治癒の魔法だ。 特に体の調子が変わったように感じない所を見ると、やはり大した事はなかったのだろう。

(よかった、大した事がなくて)

ほっとしながら、傍らに置かれていたワンピースに頭を通す。 体を動かしても、特に痛む場所はない。
そのまま袖に手を通しながら、念のため彼女は体の感覚に気を配ってみる。 異常はなさそうだし、治癒魔法のおかげか体も軽い。
完全に服を着終わると、立ち上がってみる。 不調は全く感じられなかった。

彼女が立ち上がった事に気付いたのか、レイギンがこちらを向いた。

「大丈夫みたいだな。 それにしても…」

レイギンは、アルフィスの左手をじっと見つめていた。 何故彼がそんな風に見るのか、アルフィスには判らない。

「どうされました?」
「いや…」

レイギンの表情は、何かに迷っているようだった。 困惑しているようにも見える。
少しの間を置いて、彼はおずおずと口を開いた。

「覚えていないのか?」
「えっ!?」

今度はアルフィスが困惑する番だった。 魔獣との戦いで意識を失ってから、ついさっきまで、自分は気を失っていた筈だ。 意識がある間の事は、はっきりと覚えている。 そう言えば、レイギンは自分の左手をじっと見ていた。 何か関係があるのだろうか。

アルフィスは、自分の左手を見てみた。 いつだったか判らないが、同じような事をした覚えがある。 女の子の手。弱々しい印象。でもこれで出来る。 出来た。 自分の知っている自分。 自分の知らない自分。 自分の知っている記憶。 自分の知らない記憶…。

「あ…」

ようやく、何が起こったかに思い当った。 自分の知らない自分。 自分の知らない記憶…。

「わたしまた…おかしくなってしまったんですか?」

消え入りそうな声で、アルフィスは尋ねた。








目の前のアルフィスは床に腰を下ろし、沈んだ表情で右手に手甲を着けている。裏側を着け終わり、表側の部分を所定の位置にはめ込むと、金具をかけ、固定する。

「最近、変な夢を見るんです…」

沈んだ声で、アルフィスは口を開く。
レイギンは、黙って彼女が続けるのを待った。

「わたし、3年より前の記憶がないんです。 神殿に保護されたようなのですけど、どうして神殿に保護されたのか、そこは覚えていません。 誰も教えてくれませんでした。 覚えているのは名前だけでした」

右手の手甲を着け終わり、彼女は床に置いていた左の手甲に手を伸ばした。

「どんな夢を見るんだ?」
「意味が、よく判らないんです。 社会保障とか、基本的人権とか、人類が滅亡するだとか…人類って何でしょうね。 人間とは違うんでしょうか…夢を見ているわたしは、何もかも判っているようなんです。 それに…」

アルフィスの言葉がそこで止まった。 続けるべきか躊躇しているらしい。

「言うのが嫌なら、言わなくてもいいさ」
「いえ…敵だとか、人間でなくなるとか…」
「無理して続けなくてもいいぞ」

彼女には、レイギンの言葉が耳に入っていないようだった。 思いつめた表情で、ぽつりとつぶやく。

「わたしは…」

長い沈黙が訪れた。

「人間ではないのかもしれません…」

アルフィスは沈痛な面持ちに表情になっていた。 それはそうだろう。 一般的な価値観からすれば、自分が人間ではないなどとは言いたくない筈だ。 逆に言えば、彼女の価値観は、一般的なそれからずれていない事にもなる。

「今まで考えないようにしていたのですが…教団でのわたしの扱いは、わたしが人間でないせいなのかもしれません…」
「ふむ…」

相槌程度にそう漏らし、レイギンはどんな言葉をかけるべきか考えてみる。
ふとアルフィスの方を見ると、泣き出しそうな顔で彼の方を見ていた。 彼女がそんな表情になってしまった理由が判らなかったレイギンだが、自分の言葉を思い出し、慌てて否定する。

「済まない! アルフィスが人間じゃあないって意味じゃないぞ!」
「では…」
「いや、今ふと思ったんだがね…どこからどこまでを人間って言うんだろうな?」

アルフィスは意表を突かれたようだった。 彼女の反応を待たず、レイギンは続ける。

「俺は自分の事を間違いなく人間だと思っちゃいるが、客観的に見ても相当強い部類だと思っている」
「八つ首を一人で倒されたとか…」
「ああ、それがちょうどいい。 そういう事がまるっきりダメな人間から見れば、俺はどう見えると思う?」
「一人で八つ首を倒せるような方なんて、滅多にいないと思います。 普通の人間だと、100人いても倒せるかどうか…」
「その普通の人間から見れば、俺はまるっきり化け物だろうな」

そこで一旦言葉を切ると、レイギンは冗談めかして続けた。

「『人間同士仲良くやろう』と、『化け物同士仲良くやろう』、どっちがいい?」

アルフィスは返答に困っているようだった。 2,3回目を泳がすと、おずおずと口を開く。

「冗談だったら、面白くありません…」
「そうか…」

ばつが悪いと思ったのか、レイギンはあごを人差し指で数回掻く。
その時になって初めて、アルフィスは彼の態度に気付いた。

「あの…わたしは人間ではないかもしれないのに…気にされていないのですか?」
「ん? まぁな」

あっさりと肯定の返事が返って来たため、アルフィスは絶句してしまった。 これでは、落ち込んでいた自分がまるでバカではないか。
そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、レイギンは言葉を続ける。

「まぁ、今までのアルフィスの様子を見てたら、色々難儀だとは思うな」
「なんだか本当に…何とも思っておられないようですね」
「アルフィスはアルフィスだからな。 それ以外の何者でもない」

嘘を言ってはいないようだった。

(当たり前じゃない!)

心のどこかで、そんな声がした気がした。

(レイギンはレイギンなんだから! そんな事でわたしを放り出すわけないじゃない!)

つくづく思うが、何を根拠に断言できるのだろうか?
アルフィスはそう思ったが、もう一人の自分の声を信じていいと思い始めていた。 何故そんなにレイギンに入れ込むのか判らないが、今の所、間違った事は言っていない気がする。

アルフィスは、少し心が軽くなるのを感じていた。

「少し、気が楽になりました」
「そうか。 それは良かった。 さてと…」

レイギンは立ち上がると、膝のあたりを何回か手で払う。

「準備が済んだらエルフェを助けに行くぞ!」
「はい!」

自分の声に元気が戻ったのを、アルフィスは感じていた。








遅い…。

エルフェは、自分が苛立っているのを感じていた。 正確な時刻は判らないが、そろそろ正午近いのではないかと思う。 あのレイギンとか言う冒険者は、昼くらいには助けに来てくれると言っていた。 いや、言ったのは自分で、彼は肯定の返事を返した筈だ。 いや、そもそもはっきりした返事はしていなかったっけ?

そこまで考えて、我ながら現金なものだと思った。 ほんの昨日までは後ろ向きの思考にどっぷり浸かっていたのに、今はこんな事を考えている。

希望があると、こんなにも違うものなのか…。

そうも思う。 具体的な展望という方が正しいかもしれない。 状態の終わりさえ見えれば、そこに向けての道筋が立つ。 おそらく、そうなって初めて『希望』の二文字が顔を出すのだろう。

それにしても遅い。 そう言えば、少し遅くなるかもしれないような事を言っていた気がする。 昨日聞いた話では、距離自体はそう遠くない筈なのだが。

(時間がかかるような事があるのかしら?)

そもそもどうして時間がかかるのか、その理由は聞いていなかった気がする。 何か良くない事が起こっているのかもしれない。 それならそれで、事前に連絡してくれても良いような気がするのだが…連絡も出来ないような事が起こっているのだろうか?

(まさか、ね…)

嫌な予感が頭を掠める。 もしあの二人の身に何か…死ぬような事でも起こっていたとしたら、自分を助けに来てくれない事になる。 そうなってしまったら、おそらく自分はもう助からない。 それだけは、現実になって欲しくなかった。

(信じて待ってるって言ったけど…)

あまりに待たされると、待ち続ける自信がなかった。 早く、早く助けに来て欲しい。

ガチャッ!

突然大きな音がした。 エルフェはびくりと体を震わせる。 どうやら、音は扉の方から聞こえたようだ。

(来てくれた!?)

瞬時にそう思った。 足元を取られないように注意しつつ、急いで扉の方に駆け寄る。
しばらくして、大きな音を立てながら、ゆっくりと扉が開いた。 隙間から、無機質な白い光が差し込んでくる。
扉の開いた隙間から、小さな頭が顔を出した。 用心深そうに、きょろきょろと周囲を見回している。 光に目が慣れて、その人物の風貌が判った。 黒い髪、栗色の瞳。 まだ少し幼さの残る顔立ち…。

(あのコだ!)

昨日魔法を使って話しかけてきた、アルフィスと言う仮司祭だとすぐに判った。 彼女は恐る恐る、部屋の中に足を踏み入れている。

「きゃ〜〜〜〜!」

喜びのあまり叫び声を上げ、エルフェは思わず彼女に飛びついてしまっていた。

「きゃあ!?」

不意を突かれたのか、少女はびくりと体を震わせ、短く叫び声を上げる。

「一体何をやってるんだ…」

扉の外から、そんな声が聞こえた気がした。

「エ、エルフェさんですか!?」

まだうろたえた声色を残しながら、少女が訊いてくる。

「ええ! アルフィスよね!?」
「はい。ご無事でよかった…」
「本当に来てくれたのね! ありがとう!」

エルフェは、アルフィスの体をぎゅっと抱きしめる。
その時初めて彼女は、アルフィスだけしかいない事に気付いた。

「あら? アルフィス一人?」
「いえ、レイギンさんもいますよ…扉の外に…」

アルフィスは笑ってはいたが、表情が若干引きつっているように見えた。 なんとなく、不機嫌になっているように見える。

「どうして?」
「エルフェさんに手当てが必要かもしれないし、それに…」

表情が、さらに不機嫌さの度合いを増したような気がする。

「服を着替えたりしたいだろうからって…」

彼女はエルフェの手前、なんとか笑顔を保とうとしているようだった。 しかし、内心の不機嫌さを隠し切れないらしく、引きつり笑いになってしまっている。

「わたしには、そんな気配りしてくれなかったのに…」

アルフィスが小声でぼそりと呟く。
エルフェは、彼女が不機嫌になっている理由を、なんとなく理解した。







斜面の中腹、ぽっかりと開いたアーチ状の穴から、金髪碧眼の青年が姿を現す。 彼は警戒するように周囲を一瞥すると、完全に穴の中から姿を現した。 二人の少女が、その後から姿を現す。

「正午を少し回った位か。 夜にはレルトの村に戻れるな」

日の高さを確認しながら、二人の少女に聞こえるように、レイギンはそう言った。

「う〜ん! 太陽の光が、森の空気が気持ちいい! 生きてる〜!」

外の世界を満喫するように、エルフェが目を閉じて大きく伸びをした。 その手が、レイギンの肩に当たる。

「あら、ゴメンなさい」
「気持ちは判る。はしゃぐのもいい。 だが、はしゃぎすぎて、今度は谷底に落ちたりしないでくれよ?」
「は〜い! …でも、レイギンさんがわたしを村まで抱えて行ってくれれば、そんな事にはならないわよね?」

エルフェが冗談めかしてそう言うと、アルフィスが非難に満ちた目でレイギンの方を見た。
レイギンには、「そうするのが当然だ」と訴えているのか、「するな」と要求しているのか判断が着かなかった。

「まぁ、ゆっくり戻るさ」

言いながら、レイギンは何かを考えているようだった。 彼はしばらくあごに手を当てて黙っていた後、ちらりとアルフィスの方を見ると、おもむろに口を開く。

「エルフェ、寄り道したい所があるから遠回りしたいんだが、大丈夫か?」
「ん? 少しくらいならいいわよ? でもどうして?」
「礼を言っておきたい奴がいてな…まぁ、道すがら話すさ」

そう言うと、レイギンは先に立って歩き始めた。

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