3.
目の前に、数人の者達が並んでいる。白色灯の強い光のせいで逆光になり、顔はよく見えない。

「本当に、いいのね?」

その中の一人がそう言った。若い女性の声だ。

「失敗すれば死ぬかもしれない。成功しても、元の体には戻れないのよ」

その声には、二つの相反する感情が入り混じっていた。自分の事を心配している感情と、肯定の返事を期待する感情。その二つがせめぎあっているように感じる。

それはそうだろう。

事情を知っている者ならば、肯定の返事を期待せずにはいられない筈だ。

自分以外には、いないのだから。

少し逡巡した後、彼女は口を開いた。

「かまいません」
「本当にいいの? 元の体には…」

その言葉を途中で遮る。

「何度も訊かないでください」

それ以上の言葉を拒むように、はっきりと言った。

「決心が鈍ります」
「そう…」

諦めたような、ほっとしたような声だった。

「では、被験者の同意が取れたとみなします。ここに署名を」

何かが書かれた紙と、ペンが差し出された。軽くその内容に目を通す。率直に言えば、検体として自分の体を差し出す事への同意書だ。ご丁寧に、死亡の可能性にまで言及している。

滑稽だと思う。

この期に及んで、こんなものに縛られてどうするのだろう。そんな事だから、後が無い状況まで追い詰められる。同意など得ずに、自分を無理やり処置施設に叩き込んでもよかった筈だ。人道的ではないかもしれないが、そうするだけの理由はある。

そんな自分の心境を察したのか、先程の女性が口を開いた。

「ここは法治国家なのだから」

そうだった。ここはまだ、国家の体をなしているのだった。
そこまで考えてみて、ふとある事に気づく。

「わたしは未成年だけど、サインに効力はあるの?」
「あなたは…」

先程の女性が答えようとして、言いよどむ。

「戦災孤児だから、特例として、国家が法定代理人となります」

ああ、そうか…。

それ以上の感情が出て来なかった。両親の同意について言及されなかった時点で、薄々は感じていた。もうこの世界には、親族と呼べる者は一人もいない。
改めて考えてみる。失敗して自分が死ぬ時…それはおそらく、全てが終わる時だ。ここにいる者達も、それ以外の者達も、みな無事では済まないだろう。十中八九、全員が死んでいる。

何も出来ずに座して死を待つか、わずかの可能性に賭けるか…その二つを秤にかけ、後者を選択したのだ。 自分への処置が上手く行けば、少しくらいは自分と同じ境遇の者を増やさずに済むかもしれない。

自分の名前を書き終えると、同意書を差し出した。人影の中の一人がそれを受け取り、署名を確認する。

「結構。被験者は検体となる代わりに、今後はあらゆる社会保障を受けられる事とします」

社会保障? ばかばかしい。

そんな悠長な事を言っていられる状況にない事は、この場の誰もが判っている筈だ。自分への処置が失敗すれば、ほぼ間違いなく人類は滅亡する。だからこそ体を差し出す事にしたのだし、戦う事に決めたのだ。

どうしてこう、形式ばかりにとらわれるのだろうか? 人権、法、社会保障…それが大切な事なのは判っている。しかし、それを保障しているのは国家の筈だ。国家がなくなってしまえば、そんなものは消し飛んでしまう。 単なる国家間の争いならば、国際機関によって基本的人権は保障されるかもしれない。ただしそれは、あくまで人間同士の争いでの話だ。『敵』は、人間ではない。姿かたちは人間と変わらないとは言え、人間ではない。そんな理屈は、おそらく通用しない。

自分が黙ってしまったせいか、その場を重い沈黙が支配した。

沈黙に耐えかねたのか、最初に話しかけて来た女性が口を開く。

「あなたは処置完了後、戦場へと赴く事になります。過度の精神的負荷への対策として、希望するなら精神調整処置を受ける事が出来ます。希望しますか?」

ものは言いようだと思う。『精神調整措置』などと言っているが、早い話が洗脳だ。
だが、彼女の言う通りかもしれない。これから先、自分はいつ終わるとも知れない戦いを続ける事になる。その精神的ストレスは、どれだけ大きなものになるか想像もつかない。いっその事、心など無くしてしまった方がいいかもしれない。

そう考えたが、思い直した。

「希望しません」
「わかりました。精神調整処置は行わない事とします」

事務的な口調で女性は答えたが、苦渋に満ちた表情で付け加えた。

「でも…つらいわよ…」
「かまいません」

つらいのは判っている。いや、判っているつもりだ。その上で選択したのだ。
処置が成功した後の自分は………姿かたちは人間のままだろう。しかし、姿かたちがそうであるだけだ。そうなった時、せめて…

コツコツコツ…

どこかから、そんな音が聞こえて来た。なんの音だろう?

コツコツコツ…

音は少しずつ大きくなってくる。音の感じがだいぶはっきりしてきた。

コンコン、コンコン

ドアをノックしているような音だ。こんな時に誰だろう? 余程の緊急事態でもない限りは、この『儀式』を邪魔する者はいない筈だ。だいたい、もし緊急時ならば、こんな控えめなノックの仕方にはならないだろう。 ドアをノックしている者の意図が判らない。

「おおい、いい加減に起きてくれよ」

(えっ!?)

はっとしたと同時に、薄暗い部屋の風景が目に飛び込んで来た。あと半刻もすれば明るくなる、そんな時刻だろう。シュネルだともうかなり明るくなっている筈。だいたい3の刻(午前6時)くらいか。

そこでアルフィスは、ある事に気付いた。

昨夜あの後レイギンに割り当てられた部屋に戻って、その後どうしたか…。

そう思い、周囲を見回してみる。

部屋の風景は、自分のために割り当てられた部屋とは明らかに違っていた。




「…ごめんなさい」

地面の様子を調べている時に突然声をかけられ、レイギンは怪訝そうにアルフィスの方を見た。片ひざをついた姿勢から、ゆっくりと立ち上がる。
森に入ってからおよそ二刻、既に村人の立ち入らない領域に深く入り込んでいる。
レイギンが歩く速度は、森の中を移動している事を考えると相当に速い。森林や山地の移動に熟練した者ならともかく、そうでなければ疲労困憊に陥っていてもおかしくない行程だった筈だ。しかし、アルフィスは弱音一つ吐かずについて来ていた。

問題は、彼女の様子だった。

弱音を吐くどころか、何を言っても上の空で、生返事しか返ってこない。 黙って後ろを着いて来る彼女の様子を覗ってみたが、常に俯いていた。 あの歩き方で、どうして平気で着いて来れるのか不思議だった。 平地ならばまだ判るが、ここは足場も勾配も不規則な森の中だ。並みの者ならば、普通は体力が底を付く。

その事について何度か考えてみたが、とりあえずは触れない事にしてここまで来た。彼女から話しかけてきたのは、今回が森に入ってから初めてだ。

「どうした、いきなり?」
「あの…レイギンさんの帰りを待っていたのに、そのままレイギンさんの部屋で寝てしまって…」
「なんだ、そんな事か」

重大な悩み事でもあるのかと思っていたが、そうではなかったらしい。

「気にする事はないさ。遅くなりすぎた俺が悪い」

アルフィスの気持ちをほぐそうと笑いかけるが、彼女の表情は晴れなかった。 口ではそう言っているが、ずっと別の事を考えていたのかもしれない。 それならそれで、今は触れない方がいいだろう。 幸い、今はまだ、少々ぼおっとしていても致命的な事態になる状況ではない。

それはともかく、探索について話した事は、きちんと聞いていたのだろうか?

「どこをどういう風に探してみるか説明したが、それは覚えているか?」
「えっ!?」

その一言で全てが把握できた。 間違いなく、アルフィスは説明を全く聞いていない。
苦笑いしながら、レイギンは口を開いた。

「改めて説明するぞ。 エルフェが辿ったと思われる進路から、今は西南西方向に向かいつつ痕跡を探している」

アルフィスが驚いた表情になった。彼女はしばらくの間黙っていたが、申し訳なさそうに俯いて口を開く。

「ごめんなさい…わたし…全然聞いていませんでした」

さて、どうしたものか?
ここで叱っておいた方が良いのか、そうするとさらに落ち込んでしまうのか、そこまで彼女の性格が判っている訳ではない。
その判断に迷って時間を無駄にするよりは、話を切り替えた方が得策のよう思えた。

「これが何だか判るか?」

アルフィスの注意を引くためにそう言ってから、レイギンは手に持った木の実を彼女の方に軽く投げる。
彼女は両手で包むようにそれを受け止めた後、不思議そうにしげしげと眺めた。

「緑色の…何でしょう、これは?」
「クルミだよ」
「えっ!? これ、クルミなんですか!?」

再び、彼女は手の中の木の実をしげしげと眺めた。

「でも、それが何か…」
「その種類のクルミはな、特に水気を好む。 沢筋や池の近くに多い」
「沢か池が近くにあると?」

彼女には、レイギンが何を言わんとしているのか掴めていないらしい。

「侏儒の事は、詳しくは知らないが」

一旦言葉を切った後、レイギンは続ける。

「生活するのに、水くらいは必要だろう?」
「あっ!」

アルフィスがはっとした表情になる。レイギンは、少し表情を引き締めた。

「そろそろ、侏儒との遭遇を警戒した方がいいかもしれないな。 侏儒の生活圏内に入っている可能性がある」

ゆっくりと周囲を覗う。今までのところ、それらしき気配は無い。
その事を確認すると、レイギンは立ち上がった。

「さて、アルフィス」

神妙な表情で彼の方を見ているアルフィスに、声をかける。

「ここから先は、場数を踏んでいないと危険かもしれない。どうする?」
「どうする、って…」

レイギンの言葉を鸚鵡返しに返してきたところをみると、何を訊かれたかを把握できていないらしい。
表情を変えずに、レイギンは彼女の問いに答えた。

「着いてくるか? アルフィスはここで引き返してもいい」
「わたし一人引き返すなんて、そんな…」

そこまで言って、彼女は口をつぐんだ。 どうするべきか決めかねているらしい。

(急かさず、待つか)

レイギンはそう決めると、黙ってアルフィスの言葉を待った。 沈黙が彼女を焦らせてしまう可能性はあったが、まだ初めての実地訓練だ。 性格や判断の傾向が掴めれば、今後の指導に活かせばいい。

たっぷりと時間を置いた後、自信なさげな表情で、アルフィスは口を開いた。

「あの…」

上目遣いでそう言った後、再び口をつぐんでしまう。
少しの沈黙の後、彼女はおずおずと尋ねた。

「わたし…足手まといには…ならないでしょうか?」
「アルフィス自身は、どう思ってるんだ?」

逆に訊き返す。 アルフィスは心底困っている表情になった。

「…わかりません」
「じゃあ、アルフィスはどうしたい?」
「わたしは…」

言葉を切り、暫く黙り込んだ後、彼女は口を開いた。

「レイギンさんのお邪魔にならなければ…」

続けて何か言いかけて、彼女は言葉を飲み込んだ。しかし、覚悟を決めたような表情になると、口を開いた。

「連れて行って下さい! お願いします!」

気持ちに勢いをつけての言葉だったのか、彼女の語気は必要以上に強かった。
思わず、レイギンは笑みを漏らしてしまう。

「判った。着いて来い」
「えっ!?」
「なんて顔をしてるんだ? アルフィスが決めた事だろう?」
「確かに、そうですけど…」

再び、レイギンは笑みを漏らしてしまう。
とはいえ、こんなやりとりを続けていては、いつまで経っても同じ事を繰り返してしまいそうだ。
レイギンはそう判断すると、話の内容を変えた。

「どうして、そうする事にした?」

アルフィスは、そんな質問をされるとは予想もしていなかったらしい。一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったような表情になったが、すぐに警戒した表情に変わる。

「どんな答えでも、怒りゃしないさ。 言ってみな」
「選択肢を与えられたという事は、まだわたしが選択できる状況だと判断しました。 わたしが足手まといになる状況であれば、レイギンさんは有無を言わさず、わたしを戻らせたと思います」
「俺に決めさせて、それに従う事も出来た筈だ。 どうしてそうしなかった?」

レイギンに言われ、アルフィスは虚を着かれた表情になった。

「言われてみれば、レイギンさんに決めてもらう事も出来たんですね。 考え付きませんでした」

言葉通り、彼女はその選択肢を考えていなかったらしい。 表情がありありと物語っていた。
しかし、気を取り直すように表情を引き締めると、アルフィスは言葉を続けた。

「わたしは実地訓練のため、今、ここにいます。レイギンさんの指示にそのまま従うのも、訓練の一つではあると思いますが、いずれは自分で判断が出来るようにならなければいけません。 そのためには、まず自分で判断する必要があると判断しました」

そこで彼女は一旦言葉を切ると、くすりと笑った。

「レイギンさんは、まずわたしに答えを出させて、間違っていれば修正するやりかたを取っているように思えます。 だから、わたしが自分で考えた答えを出さなきゃ、って思いました」

そして、口には出さず、心の中で付け加える。 「レイギンらしいやりかただわ」 と。
何故そんな事を思ってしまったのか、自分でもよく判らない。

「いい回答をしてくるじゃないか」

レイギンは満足そうな表情を浮かべていた。

「だったら、約束出来るな?」
「なんでしょう?」
「俺が戻れと言ったら、駄々をこねずに戻れよ。 俺が戻れという時は…どんな状況か、判ってるな?」
「ダダなんかこねませんよ! 子供じゃないんですから!」

気分を害したとでも言いたげに、アルフィスはぷいと横を向いた。
緊張感が無さ過ぎるように思えるが、緊張しすぎているよりはマシだろう。

「よし、行くぞ」

レイギンはアルフィスに背を向けると、再び歩き始める。

「はい!」

元気な返事と共に、アルフィスはレイギンの後を歩き始めた。





少し前にいるレイギンは、しゃがみこんで地面の様子を調べている。 今まで何回かこういう事があったが、今回は妙に長い。

アルフィス達は今、少し急勾配の斜面の途中にいた。 上りの斜面で、先がどうなっているのか良く判らない。
彼女はレイギンの邪魔をしてはならないと、言葉をかける事を控えていたが、ついに我慢が出来なくなった。

「あの…何を調べていらっしゃるのでしょうか?」

悪いとは思いつつ、訊いてしまう。
レイギンはゆっくりと立ち上がると、彼女の方を向いた。

「アルフィス、気付いた事はないか?」
「気付いた事、ですか?」

そんな事を尋ねてくるからには、レイギンは何かに気付いているのだろう。 しかし、それが何なのか、アルフィスには判らなかった。

「妙に歩きやすいと思わないか?」

アルフィスの答えを待たずに、レイギンは言ってくる。 言われてみれば、さっきから随分と歩きやすかったような気がしてきた。

「ここは道かもしれない」

神妙な表情で、レイギンはそう言った。 何を当たり前の事を言っているのだろう? 踏み分け道にしろ、獣道にしろ、何かが決まって通る場所であれば、それはみな道だ。 何かが決まって…。

(何が!?)

アルフィスははっとした。 今の自分たちは、村人達が立ち入らない領域に深く入り込んでいる。 ここが道だとすると、村人が使う道ではない。
周囲を見回してみる。 ここが道だとすると、馬車1台はおろか、2台は通れそうな道幅がある。 道の両側はレイギンの背丈くらい、切り立った斜面になっているが、切り崩したように見えなくも無い。

アルフィスは混乱した。 レイギンはおそらく、ここは侏儒が使う道ではないかと言いたいのだろう。 彼の表情からも、それは間違いないように思える。 しかし、侏儒がこんな幅の広い道を使うだろうか?

彼女の疑問を察したのか、レイギンは足元の落ち葉を足で払った。

「薄く土まで被っちまってるが、ここは石畳になってるな」

アルフィスは、レイギンが落ち葉を払った場所を凝視した。 確かに、取り除かれた土の下に、平たい石が見て取れる。

「でも、ここが道だとすると…」
「古代の道か何かじゃないか? それに、今も使われている形跡がある。 元々何のための道かは知らないが、出来合いの道があるんだ。 都合が良ければ利用するだろう」

そこでレイギンは一旦言葉を切り、続けた。

「侏儒でもな」

アルフィスは絶句した。 レイギンは既に気付いていたのだろうが、アルフィスは全く気付いていなかった。 それと知らずに、侏儒の通り道をずっと歩いていた事になる。 少し血の気が引いた。

「じゃ、じゃあ、すぐ離れないと…侏儒が出てくるかもしれません」

声がうわずっているのが、自分でも判る。

「それはないんじゃないか?」

答えたレイギンの表情は、そう深刻そうではなかった。

「足跡らしきものの形跡から判断する限り、ここが侏儒の道って事は間違いないと思うんだが…」
「だったら、早く離れないと!」

レイギンの言葉を遮り、アルフィスは思わず強く言ってしまった。 レイギンが困った顔をする。

「落ち着け。 今まで侏儒と出くわしてないだろ? という事は、ヤツらは夜に動き回るんじゃないのか?」
「あ…」

言われて初めて、その可能性に思い当った。 ここが侏儒が使っている道で、侏儒が昼間に行動するのなら、確かに既に遭遇していておかしくない。 そうなっていないという事は、レイギンの言う通り、夜行性なのだろう。

「とは言え、そろそろ出くわしてもおかしくないな。 足跡の数が増えている。 この先に何かありそうだ」

レイギンの表情が、再び険しくなる。

「でも、どうして侏儒の集まりそうな所に向って…」
「エルフェってコの足跡の可能性があったから、一応辿って来てみたんだが…どうやらハズレだったらしい」

レイギンは苦笑する。 今まで時々地面を調べていたのは、足跡を調べていたのだろう。 可能性は薄いとは言え、エルフェのものでないとは言い切れない。 それを確認するために、ここまで来た事になる。

「さて、どうするか…侏儒の集落が近いなら、ここまで来ちまった以上調べておいてもいいが…」

レイギンはそこまで言うと、左手側の斜面に視線を向けた。 切り立った斜面の上は、ゆるやかな上り勾配になっている。

「足跡を残しっぱなしってのは、マズイな」

彼は、今度はアルフィスの方を見る。 レイギンが何故自分の方を見るのか、彼女には判らなかった。

「あっちを行くか」

言うなり、レイギンはアルフィスの方に近づいて来た。 彼の意図が判らずにアルフィスが黙って見ていると、いきなり横抱きにされる。

「きゃっ!?」
「掴まってろ」

その言葉と同時に、強い浮遊感が襲う。 景色がすごい勢いで流れて行き、止まった。 体勢を元に戻されたので、アルフィスは地面に足を着ける。先程までいた道が、少し下の方に見えていた。

「今…何を…」
「移動した方向を掴めなくするために、跳んだ」
「跳んだ、って…」

アルフィスには実感が沸かなかった。 彼の言葉が正しければ、彼女を抱え、数クルートもある距離を事も無げに跳んだ事になる。そして…今になって気が着いたが、着地の際に音が全くしなかった。

「どうやって…」
「跳んだだけだよ」

どうやら、レイギンにとっては大した事ではないようだった。

「レイギンさん、すごい…」
「こういう事に慣れてるだけさ」

アルフィスは釈然としなかったが、それ以上追求するのはやめておいた。 少なくとも、今ここでやるべき事ではない。

「さて、あれが侏儒の使っている道だとすると、おそらく侏儒の集落にかなり近い位置にいる。 アルフィスには、これ以上は危険かもしれないな」
「レイギンさんは、どうなさるのですか? わたしはどうすれば良いでしょうか?」
「俺は、もう少し上の方まで登ってみよう。 アルフィスはここで待機しておいてくれ」
「判りました。 あの…差し出がましいようですが…」

アルフィスは上目遣いでレイギンの方を見ながら、もじもじしながら続ける。

「お役に立てるかどうかわかりませんが…魔法、かけましょうか?」

レイギンは、少し可笑しくなった。

「なんだ、そんな事か。 どんな魔法が使えるんだ?」
「姿を消す魔法と、消音の魔法が役に立つのではないかと思っています。 他にご希望があれば、わたしの出来る範囲でやってみます」
「いや、その二つで十分だ。 アルフィス自身も姿を消しておいた方がいい」

そこまで言って、レイギンは一つ問題がある事に気付いた。

「待てよ、2人とも姿を消して音まで消したら、お互いの姿が見れなくて面倒な事になりそうだな…」
「そうですね…そこは上手くやってみましょう」

アルフィスは少し難しい表情をしたが、胸の前に両手を組み合わせると、目を閉じた。 呪文を詠唱しているのか、口許が微かに動いている。 彼女が相当小声で呪文を唱えているのか、それとも声自体出していないのか、それらしき音は全く聞こえなかった。 レイギンの記憶が確かなら、ティムが魔法を使う時には、声に出して呪文を唱えていた気がする。 彼とは、魔法の系統自体が違うのかもしれない。

暫くして、彼女は目を開いた。

「上手く行ったみたいです」
「何も起きてないんだが…」

レイギンの目には、はっきりとアルフィスの姿が見えていた。 彼女もまた、明らかにレイギンの方を見ている。 ただし、目に入る光景に、なんとなく違和感があった。

「レイギンさんの姿も、わたしの姿も消えていますよ。 ほら!」

アルフィスは自信に満ちた声で、はっきりと言い切った。そして、地面を指差す。

「影が消えているでしょう?」

レイギンは地面を見てみる。 彼女の言う通り、2人の影は消えていた。 今度は、自分の手を見てみる。 こちらは消えていなかった。 これでは、姿が消えているという実感が沸かない。 そもそも、どうしてアルフィスの姿を見る事が出来るのだろう。

「アルフィスからは、俺の姿が見えているのか?」
「ええ。正確には、見えているわけではありません。 詳しい説明は省きますが、そうですね…わたしたちだけはお互い認識できるように、存在をお互い送りあっている、とでも言えば良いでしょうか」

アルフィスの言わんとしている事はなんとなく判ったが、いまいち腑に落ちない。 とは言え、追求すると難しい話になりそうだったので、レイギンはそれ以上訊くのはやめておいた。

「それにしても、これじゃあ姿が消えてるって実感がないな…」
「確かにそうかもしれません…そうだ!」

アルフィスは背負い袋を外して口を開くと、中をごそごそと探り始める。 しばらくして、彼女は金属製の小さな鏡を取り出した。

「レイギンさんの姿、鏡に映ってないでしょう?」

彼女の言う通り、鏡には森の風景以外映っていなかった。

「大したもんだな。 魔力が強いだけじゃなく、凝った使い方も出来るのか」
「こういう事は、得意なんです!」

アルフィスは嬉しそうに返してくる。

(どれだけ有能なんだ、このコは)

カルハナが『有能』と評するのも判る気がする。 これなら確かに、少し手助けしてやれば、合成魔獣くらいなら圧倒してしまうかもしれない。 彼女がまだ発展途上だとすれば、教団が手放したがらないのも理解できた。 王の側室にしてしまうには、この能力は惜しい。

そこまで考えた後、レイギンは思考を戻した。 今は、探索の方が先だ。

「ここで待っていてくれ。 俺は上の方を探ってくる」
「判りました。 お気をつけて」

アルフィスに背を向けると、レイギンは実を低くする。 木々の陰に身を隠しながら、斜面を登って行った。 姿が消えているのだから身を隠す必要はないのだが、念には念を入れておいた方がいい。

時折斜面の先の様子を覗いながら、レイギンは進んでいく。 先の方になるにつれ、光が強くなっている。 日の光を遮る木々の密度が低くなって行っているという事だ。 開けた場所になっている可能性がある。

その予想は当たっていた。

斜面を登り切ると、その先は開けていた。 広場のようになっている。 森と広場の境に潅木が茂っている可能性を考えていたが、そうなってはいなかった。 アルフィスが姿を消す魔法をかけてくれていなかったら、危なかったかもしれない。

(侏儒の集落か?)

木の陰に身を隠しながら、レイギンは周囲を覗う。改めて見てみると、広場と言うよりも、完全に開けた場所と言った方が正しい。レイギンのいる側は、直接森に続いている。 森との境に沿って右に視線を動かして行くと、下りの道に繋がっていると思われる場所が見えた。 先程までレイギンたちがいた道が、そこから伸びているのだろう。
視線を戻し、今度は左の方を見てみる。 石畳の道が続いているようで、その先で水面が日の光を反射して輝いていた。 湖だ。 かなり大きい。
再び視線を戻し、侏儒の通り道に沿って動かす。 レイギンがいる場所から80クルート(100m弱)の場所に、石の建物があった。

(城か?)

高さは20クルート程度だろうか? 横幅は40クルート程度。 ここから見る限りでは、どうやら四隅に塔を持っているらしい。

(いや…城と言うよりは…城っぽく作った建物って感じがするな。 なんだあれは?)

レイギンは少し考えてみたが、すぐに考えるのをやめた。 この建物が何であるかは、とりあえず考える必要はない。 それよりも、入り口らしき場所の両脇を固めている、2つの小さな人影の方が問題だ。
レイギンは目をこらしてそちらを見る。 明らかに人間よりも小さい。 もし人間だとしても、子供くらいの背丈になる。髪は銀色で、簡素な服から覗く肌の色は、明らかに黒かった。 ここからは目の色までは判らないが、真っ赤なのだろう。

(酒場の大将が言ってた通りの姿だな)

二体とも短い槍を持っているところを見ると、入り口の警備をしているようだ。 ここは侏儒の村に間違いない。 集落を予想していたが、あの建物を住処としているらしい。

(にしても、洒落た所に住んでやがる。 まるで別荘住まいの貴族だな)

入り口の大きさから考えると、侏儒が建てたものとは思えなかった。 おそらく人間が建てたものなのだろうが、レルトの村人はこの場所の事を知らなかった。 という事は、古代の遺跡か何かだろう。 実際、別荘だったのかもしれない。 湖の近くに建てられているところからも、そんな気がする。 いつ放棄されたのかは判らないが、その後侏儒が住み着いたのだろう。

(さて、どうしたものか…)

レイギンは広場からまず見えない位置まで退くと、地面に身を伏して考えてみた。 侏儒たちに見つからない保障があれば、広場や建物の様子を探ってみてもいいが、一旦広場に出てしまうと身を隠す場所が全く無い。 姿が消えているのは判っているが、果たして侏儒に対して有効だろうか? 侏儒や妖精族には、体温を見る事が出来る種族もいると聞くし、自分のように気配を読む術に長けている可能性もある。 侏儒の能力が判らない以上、あまり危険な事はしたくなかった。

(しかし、な…)

考えたくない、嫌な可能性がある。 エルフェが、侏儒に囚われてしまっている可能性だ。 ないとは言い切れないだけに、可能ならばその是非を確かめておきたい。

(潜入してみるか?)

せめてどの位の数がいるか、それだけでも判れば助かるのだが…それを知るのは難しそうだった。

(アルフィスなら、魔法でなんとか出来るか?)

そうは言っても、アルフィスはこの場所にはいない。 一緒に来ていれば、建物の中の様子を探る方法が無いか訊けた所だが、いないものはどうしようもなかった。 待機の指示を出したのだから、気を利かせて着いて来ているという事もないだろう。 こういう状況でなければ、声を出して呼べば済む事なのだが…。

(行きましょうか?)

レイギンがそんな事を考えていると、そう訊かれた気がした。

「ああ、来てくれ」

思わずそう口に出してしまった事に気づき、レイギンは苦笑した。 空耳だろう。 アルフィスはこの場にいないのだから。
そう思った途端、すぐ後ろに何者かの気配が現れた。 同時に、トントンと肩をつつかれる。
血の気が引いた表情で、レイギンはそちらを振り向いた。

「お呼びでしたよね?」

何故レイギンがそんな顔をしているのか判らないのだろう。 きょとんとした表情で、アルフィスがひざを抱いてしゃがんでいた。

「な!?」
「どうなされました?」

彼女は、さらに不思議そうな表情をする。
そこで何かに気付いたのか、アルフィスは右手の人差し指をぴんと伸ばすと、唇に当てた。

(消音の魔法をかけていますけど、声には出さない方がいいかもしれません。 伝えたい事を念じて下さい)

頭の中に直接、彼女の声が響く。 おぼろげにではあるが、レイギンは状況を理解した。

(これは魔法か?)
(そういうものだと思ってください。直接考えをやりとり出来ます)

どうやらそういうものらしい。 レイギンは、軽く非難のこもった思念をアルフィスに向けた。

(こんな事が出来るなら、どうして最初からやらなかった?)
(ごめんなさい…出来るかどうか、自信がありませんでした)

しょげ返った思念が、直接頭の中に届く。 レイギンは、急いで侘びを伝えた。

(そういう事か。 済まない。 俺もそうしてくれとは頼まなかったしな)

しかし、すぐに話を変える。

(俺の後を着いて来ていたのか?)
(いえ…レイギンさんの思念を…わたしに来て欲しいって思念を感じましたので、今こちらに来ました)
(人の考えを読めるのか?)
(そうではないのですけど…)

アルフィスは困った表情になった。 どうやら、どう説明していいか判らないらしい。

(レイギンさんとわたしは、姿を消していても、お互いの姿を見る事が出来るようにしていますよね。 これには、精神的な結合を使っています。 レイギンさんの思念が届いたのは、その副産物ではないかと思います)

どうやら、アルフィスにとっても予想外の事だったらしい。 となると、こうやって思考を直接やりとり出来るのも、彼女の言う『副産物』なのかもしれない。
そこまで考えて、レイギンはアルフィスの『言葉』を思い出した。

(「今、こっちに来た」?)

アルフィスがいた場所からは、結構距離があった筈だ。

(瞬間移動という魔法があるんです)

アルフィスがおずおずと言う。 レイギンは完全に絶句してしまった。

(瞬間移動は確か、相当上位の魔法だったよな…)

アルフィスは一体、どれだけの魔法を使いこなせるのだろう。 ここまで様々な事が出来るとなると、侏儒が住処にしている建物の内部構造を調べたり、中にいる侏儒の数を調べたりも出来そうな気がしてきた。

(やってみます)

彼女はくすりと笑った。 どうやら今は、レイギンの考えが筒抜けになっているらしい。

(いえ、そういうわけではないんですけど…)

今度は、彼女は申し訳なさそうな表情になった。

(レイギンさんが何を望んでいるか、がんばって読み取ろうとしているんです。 レイギンさんのお役に立ちたくて…)

健気だと思う。 その考えが伝わったのか、アルフィスは恥ずかしそうに俯いた。

(と、とにかく、やってみますね!)

気をとりなおしたのか顔を上げ、アルフィスは目を閉じて自分の両肩を抱いた。彼女はしばらくそうしていたが、力を解き放つかのように、今度は両手を広げる。 レイギンには、アルフィスの体が光を放っているように感じられた。

(この建物、3階建てですね…地下もあります。 そちらは1階層しかなく、建物の地上部分以上には広がっていません)

全部で4階層という事になる。 もしエルフェがあの中に囚われているのなら、奪還するのはかなり厄介かもしれない。

(今の所、人間と思われる気配はありません。 侏儒だと思われる気配の数は…)

数を数えているのか、アルフィスは暫く沈黙した。

(80、くらいでしょうか。 20くらいは子供のような感じがしますし、残りの半分は女性のようです。お年寄りもいるのでしょうけど、そちらはよく判りません)

もし戦うとなると、実質相手にしなければいけないのは30くらいになる。 ただの人間相手なら、上手くやればなんとかなりそうな数だ。 しかし、侏儒の能力が未知数な以上、安易に考えるのは危険だろう。

(エルフェさんは、あの中にはいないようですね。 あれ!?)

突然、アルフィスの様子がおかしくなった。 ほんの少し前までは、目を閉じていても、しっかりとした意思が感じられる表情だった。 なのに今は、諦念したような表情になってしまっている。

(もう、何日目だろう…)

ついさっきまで言っていた事と、話がまるで繋がっていない。

(がんばって生き延びても、誰が助けに来てくれるんだろう…)

明らかに、言動がおかしい。 そもそも、アルフィス自身の言葉とは思えなかった。
レイギンは黙って彼女の様子を見ていたが、ふとある事に気づいた。

(「生き延びる?」に「助けに来てくれる?」)

言葉通りの意味だとすれば、助けを待っている事になる。 レイギンが把握している中で、救助を待つ状況にある者と言えば…。

(エルフェと同調してるのか!?)

もしそれが正しいならば、エルフェが今いる位置を掴めるかもしれない。
レイギンはその事を尋ねようとしたが、そう上手くは行かなかった。

(あ…)

アルフィスを包んでいた雰囲気が元に戻る。 どうやら、限界に来てしまったらしい。 彼女の表情は、随分と消耗していた。

(大丈夫か!?)
(ええ…でも、これ以上は無理のようです)

眩暈でもするのか、彼女は顔に手を当てた。 そのまま、力ない様子で続ける。

(もしかしたら、エルフェさん、見つけたかもしれません)
(やっぱりか)
(ここからは、随分と北の方のようです。 穴か何かの中に落ちてるのかしら…真っ暗な場所にいるようです。 助けに行ってあげなきゃ…)

そこまで言った時、アルフィスの体がぐらりと傾いた。 レイギンは咄嗟に彼女の手を掴んだが、彼女は近くにあった木に、まともに背中をぶつけてしまう。 何羽かの鳥が、鳴きながら飛び立った。 反射的に、レイギンは建物の入り口の方、見張りと思われる侏儒がいる方を向く。

二体とも、こちらの方を見ていた。

(っ!)

こちらの姿が見えていないと信じたい。
二体の侏儒は何かやりとりを交わすと、一体がレイギン達がいる方に近づいてきた。

(いくら姿が見えないって言っても、この場所にいるのはマズイな…)

幸い、侏儒がこの場所まで来るには、若干の時間がある。 レイギンはアルフィスを背負おうと考えたが、それは無理のようだった。 力を使い切ったのか、彼女の体にはまるで力が入っていない。

(焦るな!)

自分に言い聞かせ、アルフィスの体をゆっくりと横抱きにする。 侏儒からの距離は、あと20クルート(約25m)前後。 今のアルフィスの状態を考えると、先程のように彼女を抱えて跳ぶ訳にはいかない。 バランスを崩したり木にぶつかってしまったりすれば、こちらから自分の存在を知らせるようなものだ。

侏儒の方を見ながら、レイギンはじりじりと後退していった。 見つかってしまった場合は即座に対応する必要がある。背を向けるわけにはいかない。

(レイギンさん、ごめんなさい)

アルフィスの、力の抜けたような思念が届く。

(ご迷惑はかけられません。 わたしを置いて行ってください)
(どうにかする。悪い方に考えるな)

レイギン達がいた場所に、侏儒が辿りついた。 片手に槍を構えながら、不可解そうに付近を調べている。

突然、侏儒がレイギン達の方を向いた。

(見つかったか!?)

侏儒は、違和感を感じている様子だった。 レイギン達の姿を見る事は出来なくても、気配を感じ取っているのかもしれない。 表情まではわからないが、訝しがるようにこちらを見つめている。

(殺るしかないか!?)

アルフィスを抱えて離脱しなければならない事を考えると、戦闘は避けたかった。 もしこの侏儒を倒すしかないなら、手早く済ませる必要がある。 時間をかけすぎると、もう一体が様子を見に来るだろう。 仲間を連れて来られでもしたら、たまったものではない。

(レイギンさん一人なら大丈夫ですよね…わたしを…)

そこまで言って、アルフィスの首ががくりと傾く。 結果的に、彼女の顔が侏儒の方を向いた。
理由は判らないが、彼女はそのまま凍り付いていた。

レイギンは、今になって初めて気が着いた。

(そもそも、姿を消す魔法はどの位もつんだ?)

アルフィスが鎧にかけている消音や軽量化の魔法のように、数日間もつというのなら問題はない。 しかし、そう長くはもたないならば、判断にかけられる時間はあまり残っていない事になる。 アルフィスが魔法を維持する必要がある場合も同じだ。 彼女の様子からして、いつ気を失ってもおかしくない。

(どうする!?)

迷っている時間はなさそうだった。 ゆっくりと身を低くし、レイギンはアルフィスを地面に寝かせる。 自由になった左手を、剣の柄にかけた。 一瞬で飛びかかれるように、腰を落とした状態で構える。

彼が動こうとした瞬間、侏儒はくるりと背を向けた。 もといた方向に戻って行く。 警戒の様子はない。 どうやら、見つからずに済んだようだ。

侏儒の姿が見えなくなるまで待って、レイギンは体勢を元に戻す。

(ふう…)

侏儒は仲間を呼びに行った様子ではないから、ひとまずは安心していいだろう。
アルフィスの方を見ると、彼女は完全に気を失っていた。

「アルフィスの力に甘えすぎたか」

レイギン自身は魔法を使えないため、彼女がどれだけ消耗するか考えていなかった。 倒れるほどの無理をするとは思っていなかったせいもある。

「これは俺の失点だな」

自分に言い聞かせるようにそうつぶやくと、レイギンはアルフィスの体を抱きかかえた。





目の前が、ぼんやりとかすんでいる。
無機質な白い光と、いくつかの黒い塊が見える。

少しして、それが人影だと気付いた。白い光は、白色灯の光だ。

彼女は、自分が目覚めた事を悟った。

−ああ、終わったんだ…。

ぼんやりとそう思う。少し肌寒い。体全体が濡れているようだ。

「お目覚めかしら?」

人影の中の一人が声をかけてくる。エミルとか言ったっけ。処置担当の技術者か、科学者のどちらかだ。

「気分はどう?」

気遣うように、エミルは続けた。

「少しべとべとして、気持ち悪いわ」

感情のこもらない声でそう答えた。まだ意識がぼんやりとしている。頭の中に、薄い霧がかかっているかのようだ。

彼女は『ユリカゴ』から体を起こすと、髪の水気を弾き飛ばそうと頭を振った。少し意識がはっきりしてくる。
その時になって気付いた。この場には女性しかいない。おそらく、女性である自分への配慮だろう。

何の気なしに自分の手を見てみた。『ユリカゴ』に入る前と変わっていないように見える。視線を体に向けてみる。やはり、変わっていないようだ。

「体、変わってないのね」

記憶が正しければ、成長促進処置も行われている筈だ。自分の体は、身体能力のピーク時まで成長させられている筈だった。なのに、『ユリカゴ』に入る前と少しも変わっていない。

という事は、失敗したのか?

彼女の危惧を察したのか、エミルが申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさい。成長促進処置までは、間に合わなかったの」

間に合わなかった? どういう事だろう?

「でも心配しないで。身体能力の強化及び、能力付加は成功しています」

自分に黒いアンダーウェアを手渡しながら、エミルは続ける。申し訳なさそうな口調に変化は無い。

「若干の調整不足はあるけれど…」

状況が飲み込めてきた。自分への処置は成功している。ただし、完全ではない。おそらく、必要最低限の処置が終わった時点で中断されたのだろう。

何か、想定外の事が起こっている。

それ以外に考えられなかった。処置を中断してまで自分を目覚めさせたのだ。あまり悠長な事をしている時間はないだろう。
体が濡れたままアンダーウェアを着るのは嫌だったが、そんな状況では仕方がない。上下一体型のそれに、袖を通す。

「シャワーくらい浴びたかったわ」
「戻って来たら、好きなだけ浴びていいわよ」

『戻ってくる』という事は、その前に『行く』という事だ。やはり、自分が出て行かなければならない事態が起こっている。

アンダーウェアを着終わると、ダークグリーンの軍服と白いプロテクターが差し出された。軍服を身に着ける。ぶかぶかとまでは言わないが、サイズが合っていないようだ。

「少し大きいわ」
「ごめんなさい。成長促進処置が完了した状態のサイズに合わせてあるから」
「…わたし、ほとんど背が伸びないのね」
「小さいくらいの方が、かわいくていいわよ」

他愛もない会話を交わしながら、プロテクターを着け始める。上半身・両肩・腕部・腰部・脚部。大きく分けて、その5箇所だ。こちらも少し大きいようだった。とはいえ、行動には支障はなさそうだ。

「武器はないの?」
「必要ない筈よ」

「素手で戦え」と言われている訳ではない。自分に付加された能力の中には、生体荷電粒子砲をはじめとした攻撃能力がある。それを使えば、武器など必要ないという事だろう。

「わたしの力…ここで試せるものはない?」
「感覚・索敵系の能力は使っても問題ないはずよ」

エミルは答えると、冗談めかして笑った。

「攻撃系の能力は勘弁してね」

至極まっとうな要望だったが、そうなると攻撃能力の使用はぶっつけ本番になる。少し不安だが、この際仕方がない。

そう思いながら、彼女は索敵能力の使用を試みた。目を閉じ、存在を感じ取る事に意識を集中する。

自分のすぐ近くに4つの反応。これはエミル達だ。少しずつ、感覚の範囲を広げていく。半径100m以内にいる生命反応は、およそ20くらい。施設内にいる人間だろう。思ったよりも少ない。おぼろげながら、施設の構造も把握できる。上下5層になっており、自分がいるのは最下層より一つ上の層だ。最上層の上には、厚さ50m程度の密度の高い構造がある。その構造を越えると、途端に密度が低くなった。密度の高い構造は、おそらく地面…この施設は地下にあるのだろう。

地上と思われる部分には、細長い構造がいくつも立ち並んでいた。森の中、という事だろうか? さらに感覚の範囲を広げてみる。半径1km程度まで広げた所で、人間に良く似た生命反応が引っかかった。こちらに近付いて来ているようだ。

処置を中断してまで自分を目覚めさせたのは、このせいか。

数は、1、2………6。はっきりとは判らないが、武装しているようだ。偶然この付近に来ただけの可能性はないではないが、この施設が察知されてしまったと考えた方が妥当だろう。自分を目覚めさせたのは正解だと思う。彼等の目的がこの施設の破壊ならば、『ユリカゴ』の破壊が最優先事項の筈だ。彼等を遥かに凌駕する戦闘能力も、目覚めていなければ使いようがない。

自分が『敵』の存在を感じ取った事を、エミル達は雰囲気で察したようだった。ヘッドセットを手渡される。

「通信機?」
「ええ。あなたは精神感応通信が使えるけど、わたしたちは使えないから」
「その『精神感応通信』は、わたし以外に誰が使えるの?」
「今のところ、誰もいないわ」
「意味ないじゃない…」

そうは言ったものの、考えてみればそうでもない。もし自分に続く者が現れれば、その時は役に立つだろう。最初の適合者である自分を見つけるのにはかなりの時間がかかったが、次の適合者は、案外すぐに見つかるかもしれない。

とは言え、現時点では使い道がない能力なのは間違いなかった。

「ねぇ…相手の思考を読み取ったり、攪乱したりするのに使えないかしら?」
「その用途は想定していなかったわね。出来るかもしれないわ」

機会があれば、試してみても損はなさそうだ。

そんな話をしている内に、彼女はプロテクターを全て着け終わった。

その姿を見て、エミルが軽く口笛を吹く。

「そうすると様になるわね。コールサインは、女神の名前にでもしましょうか? あなたはわたしたちの、勝利の女神になるのだから」
「自分で戦う勝利の女神も、珍しいわね」
「それもそうね」

エミルは少し考え込んだ。コールサインにちょうど良い女神でも探しているのだろう。
よい考えが浮かんだのだろうか、少しして彼女は、得心がいった表情で口を開く。

「じゃあ、ワルキューレ。戦乙女」

それはそれで、不吉な名前ではないだろうか。ヴァルハラは、神々の黄昏で滅びたとされている筈だ。そうでなくても、ワルキューレは勇者の魂を導く存在だったように思う。見方によっては、死神と変わらない。

彼女は自嘲気味に笑いながら、エミルに言った。

「わたしは…フェンリルの方かもしれないわよ?」
「それもいいわね。奴らを丸呑みにしてやりなさい」

出撃の準備は、もう整っている。

「どこから出ればいいの?」
「マンホールに偽装した出入り口があるから、そこから出てちょうだい。林道脇に出るわ」
「冴えない女神様ね。地の底からご登場なんて、まるでゾンビじゃない」
「贅沢言わないの!」

実際、派手に出撃する訳にもいかないだろう。あくまで可能性に過ぎないが、この施設の場所が明らかになっていない事も考えられる。そうでなくても、別働隊がいる可能性があるのだ。自分の留守中に、ここを攻撃されるような事態にはしたくない。

「地上まで歩いて行かないといけないの? テレポートとか使えないのかしら?」

付加される予定の能力に、それに近いものがあった気がする。
エミルは、申し訳なさそうに眉を寄せた。

「今のあなたでは、その能力を使うのは少し危険ね。 その上、出口地点の目印となる、アンカーポイントの設置がされてないの。 最悪の場合、地面の中とか木の中にめり込んじゃうわよ」
「それは御免こうむりたいわね…」

どうやら、思っていたほど便利な能力という訳ではないらしい。
彼女の考えを察したのか、エミルが取り繕うように言った。

「途中までは、昇降用のエレベーターがあるわ」
「その先は、壁についてるステップを登っていくのかしら?」
「申し訳ないけど、ね」
「本当に、冴えない女神様ね」

彼女は苦笑した。人間を遥かに超えた能力を付加されたとはいえ、本当に女神という訳ではない。元はと言えば人間だ。泥臭いくらいがちょうどいいだろう。

想定通りの能力が発揮できるといいのだが…。

エレベーターまで案内され、一人でその中に入る。 扉が閉まり、微かな振動と共にエレベーターが上昇していく。インジケーターの表示が、1階、また1階と、最上層に近づいて行く。
彼女は自分の手を見てみた。防護用のグローブと腕部装甲に覆われているものの、普通の人間の手と変わらない。 それどころか、自分が少女という事もあって、力強さは全く無かった。むしろ、弱々しい印象が強い。

(こんな体で、戦えるのかしら?)

戦えると信じる以外にない。

程なくインジケーターの表示が最上層を示す位置まで行き、止まった。 扉が開く。 エレベーターを出ると、すぐ前の壁に昇降用のステップが見えた。 上に向って何本も取り付けられている。後ろを振り返ってみると、ただの壁になっていた。扉があると知らなければ、ただの壁面にしか見えないだろう。

(マンホールだけあって底に何もないなんて、あからさまに変じゃない…)

その他の偽装設備を建造出来るほど、時間的な余裕がなかったのかもしれない。

上に向って続いて行くステップに手をかけ、登って行く。 光は全く無いが、構造ははっきりと感じられた。穴の大きさは、広いとは言い難い。 体の小さい自分であれば少し余裕があるが、体の大きい者にとっては窮屈だろう。

だんだんと、地上に近づいて行く。 少し先で行き止まりになっているが、そこがマンホールの蓋だろう。
そこまで辿りつくと、彼女は背中側の壁面に背中を預けた。 穴の大きさはそうするのに丁度よく、落下を心配する必要はなかった。 自由になった両手で、蓋を押し上げる。 さして労することもなく、蓋は開いた。隙間から光が差し込んで来る。 そのまま蓋を横にずらして、自分が這い出られるだけの隙間を作った。近くに『敵』の気配はない。

(この体になってから、初めての外の世界ね)

ステップを掴んで体勢を戻し、まず頭だけを外に出してみる。

薄暗い風景が目に飛び込んできた。

(えっ!?)

予想していた風景とは、明らかに異なっていた。 最初は、自分が何を見ているか判らなかった。なんだか木造の部屋の…天井を見上げている気がする。

(どうして!? 一体何処に出たの!?)

マンホールの上に木造の建築物が建てられているという事自体は、普通に考えられる話だ。 ただ、自分の感覚で見た限りでは、そうはなっていなかった筈だ。 単純に、そこまでの精度がなかっただけと考える事は出来る。しかし、それにしてはどうもおかしい。 自分は今、上を見上げているわけではない筈だ。 なのに、少し先に見えているのは天井のように思える。中央に見える太い木製の建材は、柱ではなく梁のように思えた。

(どうなってるの!?)

思わず、自分の手に目を落とす。
布の摺れ落ちる音がして、何も着けていない自分の手が目に入った。

(あ…)

そこで初めて、アルフィスは寝台の上に寝かされている事に気付いた。




「村人だけで攻めようなんて、変な気は起こさない事だな」

レイギンは念を押すようにそう言うと、テーブルの上に置いてある地図に目を通す。 そこには、侏儒の集落周辺の地形が書かれていた。
テーブルを挟んで向いに座っている村長は、背中を丸めて真剣な表情で地図を睨んでいる。

「正確な数は判らないが、アルフィスの魔法によれば全部で100近くいるそうだ。 場所も上り坂の上で、防御に向いている。 湖が近くにあるって事は、水や食料も確保出来ると考えた方がいい。 マトモにやり合おうと思えば、3倍以上の数が必要だ」
「わたしには用兵の事は判りませんが、レイギンさんの仰る事は正しいように思えます」

そう言って顔を上げると、村長は続けた。

「しかし、何故この情報を?」
「話すべきかどうか迷ったが、一応は契約の中に入っていたんでね」

レイギンは軽くため息をつくと、苦笑する。

「それに、あんたなら信頼出来ると思った。 軽率な行動には出ない筈だ」

今度は、村長が苦笑する番だった。

「そう言って頂けるのは、嬉しいですね。 仰る通り、村人だけで侏儒の集落をどうにか出来るとは思っていません」
「物分りが良くて助かるよ。 それにだ…」

そこでレイギンは一旦言葉を切る。 まだ確定情報ではないので言うべきかどうか迷ったが、伝えておいた方が良いように思えた。

「エルフェは間に合うかもしれない」

村長は最初、レイギンが何を言ったのか理解できていないようだった。 しばらくしてやっと、言葉の意味を理解したようで、うめき声ともなんともつかない声がその口から漏れる。

「な…」

村長の表情は固まり、再び沈黙した。 言葉が出てこないらしい。

「言葉通りの意味だよ。 エルフェはまだ生きている可能性がある」

だめ押しとばかりに、レイギンは言った。 しかし、表情は困ったものになる。

「とは言え、まだ確実じゃないんだ。 俺自身もまだ、確信できたわけじゃないからな」
「ど!? どういう事ですか!?」

村長は身を乗り出し、レイギンの襟元を掴む。 彼は食い入るような表情でレイギンの方を見つめ、次の言葉を待っていた。
レイギンの表情が、さらに困ったものになる。

「アルフィスが魔法で調べてくれたところによると、どうやら穴か何かの中に落っこちちまってるらしいんだ。 大まかな場所は当たりがついてる。 明日以降は、そちらに探りを入れてみるつもりだ」

嘘は言っていないが、レイギン自身確信が持てている訳ではない。 なにしろ、彼自身の感覚で掴んだ事ではないのだ。

「そ、それで!? いつ頃助け出せそうなのですか!?」
「焦るなよ。 それがはっきり言えないからこそ、探りを入れるって言ってるんだ」
「そ、そうですね…お見苦しいところをお見せしました」

(思った以上に冷静だな)

もっと取り乱すかと思っていたが、村長は冷静さを保つ事が出来たようだった。 全てを話す事にして正解だったようだ。

「俺もアルフィスくらいに魔法が使えれば、自分で調べるんだが…様子を見る限り、アルフィスの言う事は信用できそうだ。 ただな…今日は、そこまで調べさせた所でぶっ倒れちまった。 無理をさせすぎた」
「それで、アルフィスさんは意識を失っておられたんですね」
「アルフィスが明日までに回復してくれればいいが、そう都合よくは行かないかもしれない。 その場合…」

レイギンはばつが悪そうな表情をする。

「申し訳ないが、一日二日は遅れるかもしれない」

村長は黙り込んだ。 心情は判る。 本音では、今からすぐにでも探しに行って欲しいだろう。 しかし、そうする事でエルフェの救出が早くなるのか、逆にかえって遅くなってしまうのか…そんな事を考えている筈だ。

たっぷり時間を置いた後、村長は口を開いた。

「判りました。 今日はゆっくりとお休み下さい」

(物分りがいいのは助かるんだが…)

レイギンとしては、意外と言う他ない。 ヒステリックに即時の捜索再開を要求されてもおかしくない状況なだけに、拍子抜けしてしまったと言うのが正しいだろうか。

「まぁ、もしアルフィスが回復しなくても、探せる所は俺一人で探してみるさ」

村長の表情が、ぱっと明るくなる。

「本当ですか!?」
「この村に来てから、嘘を言った覚えはないんだがね」
「そ、そうですね!」

レイギンとしては、アルフィスに仕事をさせすぎてしまったとの思いもある。 初仕事にしては十分役に立ってくれたのだし、動けない間くらいは休ませてやってもいいだろう。 彼女自身は、後々文句を言ってくるかもしれないが。

その時、村長はふと何かに気付いたようだった。

「しかし…レイギンさんは、確実な情報でないと口に出さない…特に、いたずらに期待を持たせるような事は言わないような方のように思えたのですが、どうして娘の話を?」
「エルフェが無事に帰ってくるかもしれない可能性があるなら、軽率な行動には走らないだろうと思ってな」
「なるほど…仰る通りです」
「とにかく、だ…」

これ以上話を続けていても、おそらく最後には世間話程度になってしまうだろう。 そうなっても別に良かったが、レイギンは話を切り上げる事にした。 アルフィスほどではないとは言え、自分もまた、ある程度疲労している。 休める時に休んでおいた方がいい。

「リーライナでも、−この村は、大地の女神ガインサットかもしれないが−とにかく何でも、どの神様にでもいいから、エルフェの無事を祈ってやっておいてくれ」
「わかりました!」

村長の表情は、今や希望に満ち溢れていた。

どうやらこの仕事は、悪くない結末に収まりそうだ。

レイギンがそう思った時、部屋のドアがゆっくりと開いた。 キルトに付き添われ、入り口にもたれかかりながら、アルフィスがこちらの方を見ていた。

「村長…レイギンさん…お話があります」

焦燥しきった様子ではあるが、表情は深刻なものになっている。
レイギンが黙って頷くと、村長はキルトに声をかけた。

「キルト、ちょっと外していなさい」
「でも、アルフィスおねえちゃん、ボクがいないと…」

キルトは心配そうにアルフィスの方を見ると、彼女の腰にすがる。 アルフィスは、精一杯にっこりとした表情を作って彼に笑いかけた。

「アルフィスおねえちゃん、もう大丈夫だから。 それに、村長さんもいるし、レイギンおにいちゃんもいるから、大丈夫よ」
「でも…」

キルトは釈然としない様子だったが、だめ押しとばかりにアルフィスが笑いかける。

「大丈夫よ。 おねえちゃん平気だから」

アルフィスの意思を感じ取ったのか、キルトは渋々と彼女から手を離す。 彼はアルフィスから一歩離れたが、心配そうに彼女の方を見つめていた。
アルフィスは再び彼に笑顔を向けると、ゆっくりと扉を閉める。

「アルフィス、無理はしなくていいんだぞ?」

心配するように、レイギンが声をかけてくる。 その気遣いはありがたかったが、アルフィスはかぶりを振った。

「早い内に伝えておいた方が良いと思いましたので…」

彼女の表情は、真剣そのものだった。

「昨夜の話なのですけど…」

一つ一つ噛みしめるように、彼女は言葉を続ける。

「村の中で、侏儒を見ました」
『なっ!?』

レイギンと村長、二人の声が重なる。

(こんな時に限って!)

レイギンは心の中で悪態を着く。 どうやら、手を打っておく必要がありそうだった。




キルトは玄関への階段、その一番上に座って、足をぶらぶらと動かしていた。 自分がいてはいけない雰囲気なのは、幼いながらも理解していた。 それは判っているのだが、自分が邪魔者と扱われたようで面白くなかった。 でも、今戻るわけにも行かないだろう。 今度は怒られてしまいそうだ。

とはいえ、やはり面白くない事には変わりなかった。

そろそろ、周囲が薄闇に覆われようとしている。 時々家路を急ぐ村人を見かけるが、その数はだんだん少なくなりつつあった。

「キルトちゃん、どうしたんだい? イタズラでもして追い出されたのかい?」

キルトの様子が気になったのか、中年の女性が話しかけてきた。

「ううん。 お父さんとアルフィスおねえちゃん、レイギンおにいちゃんがお話をしてるから、部屋の外にいなさいって言われちゃったの」
「だからここで待ってるのかい。 お利口だねぇ!」
「うん。 でも…」

そこまで言って、キルトは不思議そうに続けた。

「ねぇ、おばさん。 侏儒って僕達の村に入ってくるものなの?」

女性は表情を一瞬引きらせたが、すぐにばかばかしいとでも言いたげに笑いはじめた。

「なんだい。 そんな事はないよ。 侏儒がこの村に入ってくるわけがないじゃないか!」

女性は、子供の他愛の無い言葉と受け取ったらしい。

「じゃあ、おばさんもう帰るからね。 お利口にしとくんだよ!」
「うん!」

女性はそこで話を切り上げ、去っていく。

まばらとは言え、人通りがない訳ではなかった。





今は夜半より少し前だろうか。

客のいなくなった店内でカウンターを拭きながら、酒場の主人はそう思った。 少し前に、最後の客が出て行った所だ。 店を閉める時刻は日によってまちまちだが、今日はいつもよりも早い気がする。 とはいえ、まさかこの時刻から酒を飲みに来ようという者はいないだろう。

そう思っていると、入り口の扉が開いた。

「なんだこんな時間に。 カミさんとケンカでもしちまったのか?」

呆れた口調で言いながら、入り口の方を見る。
金髪長身の青年と、司祭らしき小柄な少女が立っていた。

「…なんだ、あんたか。 今日は嬢ちゃんも一緒かい?」

からかうように付け加える。

「兄ちゃん、なんだかんだ言いながら、嬢ちゃんを酒で落とすつもりなんじゃねぇか? 嬢ちゃん、気をつけなよ!」

反応は返ってこなかった。 青年は酒場の主人の言葉を無視するように、店内を一瞥する。

「もう、客はいないのか?」

声のトーンが落ちている。 酒場の主人はすぐに、青年の言いたい事を感じ取った。

「ああ。 今日はもう閉店だ。 特別に酒を飲ませてやるから、戸を閉めな。 あんたを特別扱いしたのが判っちゃ、具合が悪い」
「判ってるらしいな」

レイギンは苦笑すると、入り口の扉を後ろ手に閉めた。






カウンター越しに、青年が深刻な表情で事情を説明してくれている。 仮司祭の少女は、彼の傍らにちょこんと腰かけ、無言で自分の方を見ていた。
程なく、青年の話が終わった。

「そいつぁ、ちと困った事になったな…」

それ以上の言葉が出て来ない。

「とりあえず、酒でも注文してくれないかね」
「そうだな…エールでももらおうか。 アルフィスも何か飲むか?」
「わたしは結構で…」

言いかけた後、何も頼まないのも悪いと思ったのだろうか、少女は言い直す。

「では、わたしはお茶を」
「高いぞそれは」
「そもそもそんな上等なモン、ここには置いてねぇ」
「えっ!? そうなんですか!?」

そんな事はまるで考えていなかったらしく、少女は慌てていた。 少しして、彼女は再び口を開く。

「では、わたしは何かの果汁水を」
「はいよ。 エールにヤマブドウの果汁水ね。 まいどあり」

酒場の主人はレイギン、アルフィスの順番にジョッキを前に置く。 ジョッキが予想以上の大きさだったのか、アルフィスは顔をしかめていた。
レイギンは銀貨を5枚取り出すと、カウンターに置いた。

「…エールと果汁水にこれだけたぁ、随分と羽振りがいいじゃねぇか」
「厄介事を押し付ける事になるかもしれないからな。 安すぎるって文句を言われても仕方が無い位だ」

レイギンは苦笑すると、言葉を続ける。

「前金とでも思ってくれ」
「何も起こらなかったら、返せってか?」
「そんなケチくさい事は言わないさ。 取っておいてくれ」
「この村に、そんな肩入れしなくてもいいと思うがね」
「性分さ。 あんたなら判るだろう?」

レイギンは自嘲気味に笑った。 酒場の主人も苦笑で返す。

「にしても、侏儒を村の中で見たたぁ、おだやかじゃねぇな。 嬢ちゃん、それは本当の話かい?」
「ええ。 今日実際に見るまでは、考えもしなかったのですけど…侏儒の集落で見たものと、昨夜村の中で見かけたものは、間違いなく一緒のものです」

緊張のためなのか、それとも人見知りをするのか、少女の表情は硬かった。

(無理も無いか…)

レイギンは思う。 そもそも、村の中で侏儒を見たのは、アルフィス一人だけだ。 話そのものを否定されてしまってもおかしくない。
しかし酒場の主人は、黙って彼女の話を聞いていた。

「嬢ちゃんの話は本当だと信じよう。 だがな…」

酒場の主人は首を捻る。

「なんだって今、侏儒が村の中なんかに来るんだ? 昨日は侏儒のヤツ、一体何をしてたんだ?」
「きょろきょろと辺りを覗っているようで…何かを探しているようでした」
「迷い込んだってだけならいいんだが…偵察の可能性もあるな」

苦虫を噛み潰したような表情で、レイギンがアルフィスの言葉を継ぐ。
酒場の主人は、嫌な顔をした。

「で、兄ちゃんよ、俺に何をして欲しいんだ?」
「具体的な指示が出来なくて申し訳ないんだが、何かあった時に、戦えそうなのがあんたくらいしか思いつかなくてね」
「それでこんな時間に来たってわけだ」
「ああ。 この話を知ってるのは、あんたと俺、アルフィス、村長の4人だけだ。 他の村人には知られたくない。 確定的でない情報で村人の間に不安が広がれば、どんな事になるか判らないからな。 俺が村にいれば、ある程度押さえは利くと思うんだが…」

再び、レイギンは苦虫を噛み潰したような表情になった。

「森に入っている間は、そういうわけにもいかない」
「そんときゃ、俺が抑えればいいわけだ?」
「あんた一人でやってくれとは言わないさ。 村長がやってくれる筈だ。 あんたは村長の手助けをしてくれればいい」

そこでレイギンは言葉を切り、改めて酒場の主人の方を見る。

「その時は、俺がした話は知らなかった事にして、村長の手助けをしてくれれば助かる」
「村長の方には、根回しは済んでんのか?」
「ああ。抜かりはないよ」

レイギンは薄く笑う。 アルフィスには何故か、それが彼の本分のように思えた。
しばらく会話が途切れ、レイギンがジョッキを口に着ける。 アルフィスも、おずおずとジョッキに口を着けた。

「それにしても、まだ誰も侏儒の事は知らないんじゃねぇか?」
「少なくとも、今日この酒場に来た客には知られていないようだな。 もしそうじゃないなら、ここで噂になってる筈だ」

うんざりした表情になりつつ、レイギンは続けた。

「その確認もするために、ここに来た」
「つっても、村の中にゃあ見たヤツもいるかもしれねぇって事か」
「ああ」
「兄ちゃん、イヤに用心深いな。 剣士ってよりも、まるで軍人か何か…」

そこまで言って、酒場の主人ははっとした表情になり口をつぐむ。

「済まねぇ。 余計な詮索をしちまったか?」
「いや、いいさ。 少なくとも大間違いじゃない。 今は現役じゃないがね」
「そうか…」
「じゃあ、頼んだぞ」
「しゃあねぇな。 にしても、割に合わねぇ話だ」
「あんたを見込んで頼むんだ。 何か起こった時には、村長に追加で請求してくれ」
「はは、そうさせてもらうぜ」

酒場の主人はにやりと笑い、レイギンも笑い返す。 アルフィスは、黙って二人のやりとりを見ているしかなかった。

レイギンが立ち上がり、出口に向おうとする。 アルフィスは慌てて立ち上がると、酒場の主人にぺこりと頭を下げ、急いでレイギンの後を追った。

「邪魔したな。イヤな客で済まなかった」

出口まで行くと、レイギンは酒場の主人の方を振り返り、そう言う。

「酒も飲まずに長居するヤツに比べりゃ、はるかにマシな客さ」

酒場の主人は笑っていた。

「気をつけてな」
「ああ」

レイギンは軽く手を上げると、酒場の外に出る。 空が曇っているのか、周囲は闇に包まれていた。 そんな中でも、レイギンはまるで見えているかのように夜道を進んで行く。 見失わないよう、アルフィスは彼の後ろにぴったり着いて歩いて行った。

村長の家に向いながら、アルフィスはふと気になった事を尋ねてみる。

「レイギンさん…」
「ん?」
「軍にいたのですか?」

返事は、しばらく返ってこなかった。

(もしかしたら、気を悪くしちゃったのかも…)

アルフィスがそう危惧し始めた頃、レイギンがやっと口を開いてくれる。

「シャールにいた頃はな」

特に感情がこもった声ではなかった。 少なくとも、気を悪くしている訳ではないらしい。

「知りたいのか?」
「いえ…」

反射的にそう答えてしまったアルフィスだったが、急いで言い直した。

「いえ、もしレイギンがかまわないのでしたら、教えて下さると嬉しいです」
「かまわないが、ちょいと長くなる話でね。 また今度な」
「いいんですか!?」

てっきり拒否されると思っていただけに、レイギンの返事は意外だった。 レイギンの方でも、アルフィスの反応は意外だったらしい。 表情は見えないが、意外そうにアルフィスの方を見た気配がした。

「かまわないが、俺もアルフィスに訊きたい事がある。 アルフィスは構わないか?」
「ええ…かまいませんが…」

アルフィスは言い澱んでしまった。 自分が話せる事は、レイギンに全て話してしまっていい。 どういう訳か、知って欲しいとさえ思う。

(だって、ずっと待ってたんだから…)

これだ。

この不可解な感情。 こればかりは、アルフィス自身も説明出来ない。 むしろ、誰かに説明して欲しい。

「わたしが話せる事を話しても、レイギンさんが納得して下さるかどうか…」

そうとしか言えなかった。 それをどう受け取ったのか、レイギンは笑ったようだ。

「はは、そこはお互い様だ」

おそらくレイギンの解釈は、自分の言葉の真意とはズレている。

ばつが悪く思いながら、アルフィスはレイギンの後を着いて行った。

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