2.侏儒
今年は当たり年なのだろうか?

肩にかけた頭陀袋に木の実を入れながら、彼女はそう思った。去年よりも、随分と木の実が多い気がする。

クリ・クルミ・ヘーゼルナッツ…ヤマブドウやベリー系の果実も多く見つかる。去年の同じ時期に比べて、明らかに全体的に多い。

全体的に?

そんな事があるのだろうか? 確かに、当たり年には実の量が顕著に増える。しかし、それはどれか一種類だけの話だ。たまたま数種類の当たり年が重なる事はあるとしても、全部が全部という事はまずないだろう。そもそも当たり年ならば、その事が話題となっている筈だ。そんな話は耳にしていない。

その事が少し気になり、袋の中身を見てみる。厚い皮に覆われた、緑色の丸い実が特に目に付いた。クルミだ。それが特に多い。

クルミが多い?

その意味に気付いて、はっとした。自分達が採取のために立ち入る場所には、クルミの木はそう多くなかったはずだ。しかも、その実は目立つ。もし当たり年だったとしても、採取に来た者はその分多く採って行くだろう。自分一人だけが採って回っている訳ではないのだ。ここまで顕著に多くなる事は考えにくい。

これではまるで、自分一人が採って回っているようだ。

もしそうだとしたら、他の者は立ち入らない場所に足を踏み入れてしまっているのかもしれない。

聴覚に神経を集中させる。微かではあるが、せせらぎの音が聞こえる気がする。

いや、そんなはずはない。あれはきっと、木々の葉が風でこすれあって立てる音だ。自分達がいつも採取して回る場所には、近くに沢などない。

改めて耳をそばだてる。風はない。しかし、せせらぎらしき音が止む事はなかった。

背筋を冷たいものが走り抜け、全身が総毛立った。

自分が今いるのが、「あれ」が時折姿を見せる場所ではないと思いたい。そうでなくても、自分は迷ってしまっている可能性があるのだ。

世界は色を失っていた。豊かな実りをもたらしてくれる木々は、今では冷たい構造物にしか見えない。葉によって落ちる影、枝々の影が、ひどく不気味なものに感じられる。
微かな物音ですら、その一つ一つが、鋭利な刃物のように彼女の心を突き刺した。

がさり。

枝と葉が立てた音に、ぎょっとして振り向く。
恐れていたものが、そこにいた。遭遇するのは初めてだが、話に聞いた通りの姿をしている。単独のようだ。その真っ赤な目が、じっとこちらを見つめていた。

逃げなければ!

何もしないで逃げ出せば、襲っては来ないかもしれない。とにかく、この場所から離れなければと思った。無我夢中で走った。
森の中を歩き回る事には慣れていても、全力で走った事など一度も無い。息が切れ、心臓が早鐘を打つ。
それでも、走れる間は必死で走った。どこをどう走ったかわからない。

気が着くと、なだらかな斜面の上にいた。

ここはどこだろう…。

荒い息をしながら、そう思った。さっきの場所から離れる事は出来たかもしれないが、今度は自分が何処にいるか判らない。

陽が翳り始めていた。夜になる前に、村に帰りつかなければ。

焦りが判断を狂わせる。今の彼女は、移動していなければならないという思いに捕らわれていた。闇雲に歩き回ったせいで、方向感覚は完全に失われている。

不意に、足元の感覚がなくなった。

身が軽くなったような、浮いているような感覚に襲われた。体が回っているような気がする。
そう感じた直後、強い衝撃が体の中を突き抜けた。その時になってやっと、自分が落下していた事に気付いた。

目の前が真っ暗になる。

思考を保てたのは、そこまでだった。五感が急速に曖昧になって行く。

彼女の意識は、深い闇の中に沈み込んで行った。




『光の道標』亭の食堂で、レイギンはカウンターを挟んでチュルクと向き合って座っていた。
時刻は五の刻(午前10時)少し過ぎ。朝食には遅すぎ、昼食には早すぎる時刻のせいか、彼らの他には誰もいない。給仕の仕事をする事はないと思っているのか、チュルクはエプロンを外している。彼女の薄茶色のベストの左胸には、伝書鳩を意匠化した、銀色の胸章が留められていた。

「どうなんだ? よさそうな仕事はないのか?」
「ちょっと待って。う〜んと…」

言われて、チュルクは手に持った帳簿をぱらぱらとめくる。俯いているため表情はわからないが、条件に合う仕事が見つからなくて困っているようだ。
しばらくして帳簿をカウンターの上に置くと、彼女はレイギンの方を向いた。予想通り、困り果てた表情になっている。

「一通り探してみたけど、いいのがないよ。レイギン一人だったら大丈夫な仕事は多いけど、レイギン今、子連れだから」
「もう少しマシな表現は思いつかなかったのか?」

少し顔を引きつらせてレイギンがつぶやくが、チュルクは聞いていないふりをして再び帳簿に目を落とす。しばらくして、彼女の手が止まった。

「これなんかどう? 人さがし。森の中で行方不明になった人を探すんだって。場所はレルトの村。報酬は2000ルシュタだよ。アルフィスと半々で分けても1000だから、お得な方じゃない?」

意見を求めるような表情でチュルクはそう言った後、付け加える。

「仕事としては、だけど」

不安と警戒の色が、かすかに見て取れた。

「確かに割はいいみたいだが、割が良すぎないか?」
「それはあたしも思った。それに…」
「見せてくれ」

促すように、彼はチュルクの方に手を伸ばす。彼女は開いたままの帳簿を渡すと、件の依頼の場所を指し示した。
レイギンの表情が曇る。

「具体的な事は、報酬額くらいしか書いてないな。『詳細は現地にて説明』か。やっぱりな」
「うん」
「単なる人探しなら、自警団あたりで山狩りでもするだろう」
「したけど見つからなかったのか、そもそも出来ないか、だよね」

どうやら彼女も、その結論に達していたらしい。わざわざ冒険者に仕事を依頼してくる程だ。何らかの脅威が存在すると思って間違いないだろう。

「それにだ」

他にも懸念はあった。

「今日で何日目だ?」
「はっきりとはわかんないけど、レルトの村からシュネルまで、普通なら1日、早馬で半日くらいだから、その分を足しても…」
「普通、1日や2日で捜索の依頼を出したりはしないよな?」
「だと思う。もしかしたら、一週間くらいは経っちゃってるのかも」
「それがどういう事なのか、わかってるよな?」
「わかってるよ。レイギンが言いたいのは…」

一瞬言葉に詰まったあと、チュルクは苦虫を噛み潰したような表情で答えた。

「でも、今ある依頼だと、それくらいしかないんだよ」

困って、チュルクは口をつぐんでしまう。彼女としても何とかしたいとは思うものの、レイギンとアルフィスという組み合わせで考えると、ちょうどよさそうな依頼が見つからないのだ。

レイギンは、うんざりした表情で髪の毛をかき回した。

「生きてると思うか?」
「望みは薄いんじゃないかな…」
「どういうつもりで、この依頼を勧めたんだ?」
「実地訓練のためにここに来てるんだから、何もしないでいるわけにもいかないんだよね?」

アルフィスがこの宿に来てから3日、今の所目立った事は起こっていない。彼女がこの場所にいる事にまだ気付かれていないのか、そうでないのかは、レイギンには判断がつきかねた。何しろ、相手のなにもかもがわからない。どのくらいの勢力を持っているのか、どの程度の情報網を持っているのか、どれだけの人材が揃っているのか…現時点では、分が悪いかどうかすら判断できないのだ。ただ一つ言えるのは、現時点ではこの宿が監視されたり、暗殺者が放たれたりしている兆候はないという事だけだ。

そうなると今度は、「実地訓練」というアルフィスの本分が浮かび上がってくる。そのため、レイギンはチュルクに仕事を探してもらっているのだった。

「おまえ、初めて腐乱死体見たとき、その場で吐いたよな」
「だって、頭ではわかってても、あんなにひどいものだとは思ってなかったんだもん」

思い出したくもないとでも言いたげに、うんざりし切った表情でチュルクは答える。

「がまんしとくともっとひどい事になりそうだったから、早めに吐いちゃった方がいいと思ったの。それに…」

どうしてそんな判断をしたのか思い出しているのだろうか、チュルクは少しの間沈黙した。

「レイギンには、吐くどころじゃないところまで見られた事があったから、別にいいと思って」

申し訳なさそうな表情になると、彼女は上目遣いにレイギンの方を見ながら続ける。

「イヤだった?」
「おい…誰かに聞かれたらどうするつもりだ?」
「レイギンとのやりとりは半分以上冗談で出来てるから、きっと冗談だと思ってくれるよ。それにしても、あの後しばらくは、お肉たべられなかったなぁ」

様子を思い出してしまったのか、彼女の表情には「気持ちが悪い」の色が加わっていた。
半ば呆れ顔で、レイギンは尋ねる。

「アルフィスが同じ目に遭う可能性が高いと判った上で、この仕事を勧めるのか?」
「難しいところなんだよね、そこ」

左手で頬杖をついて首を深く傾け、チュルクはひときわ大きなため息をついた。

「アルフィスがさ、この先戦いの道に進むんだったら、遅かれ早かれそういう事に突き当たると思うんだ。だったら、早い方がいいんじゃないかとも思うんだよ」

再び大きなため息をつき、チュルクは続ける。

「きれいに死ねるとは限らないって、あたしはあれで実感できたから」

チュルクは視線を上の方に向けると、頬杖をついている方とは逆の手、右手で三つ編みをくるくると弄びはじめた。判断が着きかねて困っている時の、彼女の癖のようだった。

言葉を選んでいるのか、彼女はしばらくの間無言だった。少しして、おずおずと口を開く。

「でもね、あたしはわりとすぐに立ち直れたけど」
「誰もがチュルクと同じと考えるなよ」
「そこなんだよ。いきなりそんなものを見ちゃったときに、アルフィスが立ち直れるかどうかがわかんないんだ」
「当たり障りのない依頼があれば、それが一番いいんだがな」

困った表情で、レイギンは軽くため息をついた。

冒険者に出される依頼は様々なものがあるが、多いのは駆逐や駆除と言った類のものだ。これは、フラードの国土的な特徴に起因している。理由の一つは、フラードが広い国土を持つためだ。平野が多いとは言え、広い国土の中には深い山地や大規模な沼沢も多い。そのような難所には、魔物や有害生物が住み着いている事がままある。

また、フラードの国土は、古代魔法王国の首都だった地域を内包している。そのため、古代魔法王国の崩壊時に放置された遺跡が数多く存在していた。そんな場所はたいてい人が寄り付かないため、多くは魔物の住処となってしまっている。

どちらの場合も、人間がその地域に踏み込まなければ特に問題はない。しかし、そうは行かない事も多かった。土地の開発や開墾の場合もあれば、何かのきっかけでお互いが接触してしまう時もある。フラードは常備軍を持っているため、ある程度は軍で対応出来る。しかし、全てのケースに対応する事は、事実上不可能だった。そのため、比較的小規模なケースに関しては、冒険者の出番となる。

小規模とは言っても、その地域の住民が自力で何とか出来るレベルであれば、そもそも依頼は出されない。逆に言えば、一般人には手に負えないからこそ、冒険者に依頼が出される。冒険者の方でも、複数人で対応する事は珍しくない。

とは言え、一つの依頼に複数人で対応するという事は、一人当たりの報酬額が減るという事でもある。各人の技量の問題もあれば、性格や技能的な相性の問題もある。今のレイギンの場合は、アルフィスの件も抱えている。仕事のパートナーとして考えるならば、信頼できるかどうか、何かあった時に自分自身を守れるかという点まで考慮する必要があった。

そうなると、困った事に組める相手がいない。比較的よく組んで仕事をするティムとダルナスは、「今度は俺達が割のいい仕事をもらう番だ!」などと言って、二日前に仕事に出て行ってしまった。カルハナがいてくれれば条件はかなり緩くなるのだが、さっさと帰ってしまったものはどうしようもない。当のアルフィスはと言えば、武術や魔術の訓練を受けているとは言っても、実戦に関しては素人と見ていいだろう。そう考えると、アルフィスに指導をしながらこなせるような依頼が最適なのだが、そんな都合のいい依頼はなかなかない。

「『拙速は巧遅に優る』って言うけど、一歩間違えれば取り返しのつかない事になっちゃうよね。今回は見合わせる?」
「ティムとダルナスが帰ってくるのを待つか? あいつらはどんな仕事をしてるんだ?」
「古代遺跡の調査だって」

チュルクはカウンターの下から『仕掛中』と書かれた帳簿を取り出し、ぱらぱらとめくった。

「変なものが住み着いてないか調べて、住み着いてたら駆除する依頼だね。行くのに二日くらいかかる場所だから、ちょうど今日着いたくらいかな?」
「もし一日で片付いたとしても、帰ってくるのは3日後か。そういえば、姉御はどうした?」
「姉御も仕事中だよ。えっとね………浮気調査だって」
「それはそれで、時間がかかりそうだな」

どうやら、レイギンとアルフィスという組み合わせで考える以外ないらしい。

「そこそこ腕が立って、仕事慣れしてる奴が一人いれば、それで十分なんだが」
「あっ!」

何故今までその事に気付かなかったのだろう、とでも言いたげな表情になると、チュルクは自分を指差した。

「あたしあたし! あたしがいるじゃない!」
「…チュルク、自分が何を言ってるのか判ってるのか?」
「なんで? あたしだったら大丈夫だと思うよ?」
「お前なぁ…俺だけじゃなくてアルフィスもいるんだぞ」

レイギンは、心底呆れた表情になって続ける。

「チュルクが出来る事は、『複数間の連絡の仲立ち』だけ、って事になってるだろ。今までチュルクが仕事に関わったのは、別行動中のグループ間の連絡をとりもつ、『通信士』としてだけだった筈だ。それなら、2グループ以上に分れないと意味がない。チュルクの事を知ってるのは、今のところ俺だけとなると…」

レイギンは、白い目でチュルクを見ながら言った。

「アルフィスに単独行動をさせる気か?」
「そ、そう言えばそうだよね」
「アルフィスに知られてもいいって言うのなら、話は別だがな」

困惑した表情が、何よりも雄弁にチュルクの気持ちを物語っていた。

やはり、ティムとダルナスが帰ってくるのを待つなり、難易度が低そうな依頼が来るのを待つ方がいいかもしれない。
しかし、それはそれで、今度は別の問題がある。

知ってしまった。

その一言に尽きる。おそらく一刻を争う依頼だ。依頼元の心情を考えると、とても放置できるものではなかった。気持ちの問題だけではない。放置してしまうと、依頼の仲介をしている『光の道標』亭の評判にも関わる。チュルクがこの依頼を勧めて来たのは、その理由もある筈だ。

「思うんだけどさ…あたしたちで話してても、同じ所をぐるぐる回るだけなんじゃない?」
「アルフィスと話した方が早いって事か?」
「うん。実地訓練なんでしょ? 本人に判断させるのも、重要な訓練だと思うんだ」

確かに、チュルクの言う通りかもしれない。そもそもアルフィスが嫌だと言えば、無理やり連れて行く訳にもいかないだろう。難易度が低いと明確に判っている依頼ならともかく、レイギン自身が躊躇している依頼内容だ。無理やり連れて行けば、最悪の結果を引き起こしてしまう恐れがある。

「チュルクの言う通りだな。アルフィスは何してる?」
「朝ごはん食べた後、出かけて行っちゃったよ。一人で街を回ってみるって言ってた」
「出来るだけ一人で歩き回るな、って言っといたんだがな。その矢先にこれか」

言いながら、レイギンは顔をしかめた。彼の様子を、チュルクは不思議そうに見つめる。

「なんで? 物心つかない子供ってわけじゃないんだから、別にいいじゃない?」

合点がいかないようだ。彼女には、アルフィスが一人で出歩いたところで、レイギンにとって何の不都合があるのかわからない。

「心配しすぎだよ! 過保護だなあ、もう!」
「そうは言うがな、新しく赴任してきた司祭とでも思われてみろ。遠慮なしに請願が飛んでくるぞ」

もちろん、実際はそんな理由ではない。アルフィスの髪と目の色は目立つ。その上、リーライナの信徒である事は一目瞭然だ。噂とまではならなくても、人々の口の端には上るだろう。そうなってしまえば、いずれは第二王妃の手の者に嗅ぎ付けられてしまう。

(自分の立場をわかってるのかね、あのコは)

頭が悪いようには見えないのだが、実際はそうではないのかもしれない。あるいは、事の深刻さを理解できていないのか。

(無理もないか)

外出は出来るだけ避けて欲しいところだが、あの年頃だ。よほど大人しい性格をしていない限り、ずっと『光の道標』亭にこもっているのはかなりの苦痛になるだろう。よしんばアルフィスがそれに耐えられたとしても、この街の神殿から呼び出しがかかれば、出て行かない訳にはいかない。彼女の方が用がある場合もある。実際に昨日、アルフィスは神殿に挨拶に行っていた。表向きは単なる実地訓練でこの街に来ているのだ。そういった常識的な対応はしておかないと、かえって訝しがられる。

(そういや、えらく大きな荷物を持って帰ってきてたな)

レイギンはふと、昨日アルフィスが神殿から帰ってきた時の事を思い出した。大きな布の袋を背負って帰ってきたが、一体何が入っていたのだろうか? 訊いても、「神殿に行ったら、わたしの荷物が届いていましたから」としか答えてくれなかったし、その後すぐに部屋に篭ってしまった。大きさのわりには重そうな感じがしなかったし、特に目立つ音もしなかったので、衣類でも入っていたのかもしれない。そう言えば彼女が部屋に篭ってしばらくして、ティムが「気合入ってるなぁ〜」などと言っていたか。ティムには、彼女が持ってきた物が何か判っていたのだろうか?

そこまで考えて、レイギンは考えが逸れてしまっていた事に気付いた。そんな事はどうでもいい。今考えておくべきは、これから先のアルフィスの行動指針だ。

(髪の色が目立つのが特にマズイな。仕事に行く時にも、道中で見られちまうだろう。毎回夜中に出発する訳にもいかねぇし、対策を考えておく必要があるか)

改めて考えてみると、色々と面倒だ。むしろ普通に行動して、「司祭としての道に進もうとしている」事をアピールした方がいいのかもしれない。

レイギンがそんな事を考えていると、チュルクがじっと自分の方を見つめているのが目に入った。どうやら、随分と黙り込んでしまっていたようだ。

「レイギンさぁ…」

自分がじっとレイギンの方を見つめていた事に、彼が気付いたと見て取ったのだろう。チュルクはぽつりと言った。

「あたしに何か隠し事してない? あ、もしかしたら、レイギンが、って言うよりは、アルフィスが、なのかな?」
「そう見えるか? だとしたら、一体何をだ?」

レイギンに訊き返され、チュルクは人差し指を顎に当てて斜め上を向いた。彼女はしばらくそのまま考え込んでいたが、何かに思い当たったのだろう。人差し指を顔の前に立て、「どうだ!」とでも言わんばかりの表情で口を開く。

「実はアルフィスとは初対面でもなんでもなくって、将来を誓い合った恋人同士とか!」
「意表を突いた冗談だな」
「うん、冗談だよ!」
「おい…」
「面白かった?」

答えの代わりに、レイギンは非難の視線をチュルクに投げかけたが、彼女は意に介した様子もない。しかし、急に寂しそうな表情になって言葉を続けた。

「あたしに隠し事をするのは別にいいんだ。レイギンがあたしに隠し事をするのは、『知ってしまうと、あたしにとって都合が良くない事になる』からだから。それはわかってるつもりだよ。でもね…」

彼女は、左胸の胸章を軽くいじる。

「知ってないと協力できない事もあるよ。だから、もしあたしに協力して欲しい時は、遠慮なく言ってね!」
「気持ちはありがたく受け取っておこう」

言いながら、レイギンは嬉しそうに微笑んだ。

「チュルクの協力が必要な時は、遠慮なく頼むさ」
「ん…そう言うって事は、あたしの勘違いだったのかな?」
「その前に、そこまで気に病む必要もないって事だ。親身になって考えてくれるのは嬉しいがね」
「えへへ! うちの売りだもん!」

チュルクは、今度は屈託なく笑った。レイギンの言葉をそのまま受け止めているのか、あるいはそういう風に見せかけているのか、それは判らない。ただ、これ以上この話題を引っ張るつもりはないようだった。

「アルフィスが帰ってくるまで、しばらくかかりそうだな。コーヒーでも入れてくれ」
「え〜! お昼まではエプロン着けなくていいと思ってたのに! 今の季節でも結構暑いんだよ、あれ!」
「そんな理由で仕事をサボるな」
「は〜い!」

口をとがらせながらそう言うと、チュルクは厨房の中に入って行った。

(アルフィスが仕事を受けたいって言った場合は、昼メシを食った後すぐにでも出発した方がいいな。今の内に済ませとくか)

そう思い、陶器製のマグカップを持って戻ってきたチュルクに昼食の用意を頼む。

「そういう事は、いっぺんに頼んでよ…」

恨みがましい表情でそう言うと、チュルクはまた口を尖らせた。



適当に『光の道標』亭の近くを散策し終えたので、アルフィスは帰路についていた。レイギンが危惧していた事は彼女自身も理解していたので、一応対策はしている。長い黒髪は一本に編み、前に出して首元から肩布の中に突っ込んだ。その上で、頭布も被っている。余程近づかない限りは、髪の色も瞳の色もわからない筈だ。普通の者がそんな格好をすれば怪しまれかねないが、幸い彼女はリーライナの信徒だ。リーライナの女性信徒は極力肌を晒さない服装をする事が多いため、彼女がそんな格好をしていても、気に留める者はいない。

(何か起きた時に、この街の神殿に逃げ込むのは無理そうね)

昨日神殿に行った時に測ってみたが、『光の道標』亭からは歩いてほぼ半刻(約1時間)かかる。状況にもよるが、その距離を逃げ切る事は出来ないと考えた方がいいだろう。冒険者がよく利用するせいか、『光の道標』亭のすぐ近くには厩舎があった。そこの馬を利用できないかとも考えたが、条件は相手も同じだ。

歩いて半刻の距離…その距離は、第二王妃の手の者に対して、神殿が抑止力になりそうにない事も示していた。

(レイギンさんは強そうだし、他の人たちもいるけど…『光の道標』亭は冒険者の店とは言っても、扱いは普通の宿屋と同じだから…わたしがずっと神殿にいる事ができれば、それが一番いいのに)

ここリーライナ自治領においては、神殿は行政と警察機構を司っている。いくら第二王妃の手の者でも、そんな場所に襲撃をかけて来たりはすまい。

しかし、神殿に居座るという手段は、同時にリスクも伴う。

教団は自治を認められる代わりに、人員配置を全て報告する義務を負っている。これは、反乱を未然に防止するための措置だ。教団側でもそれは理解しており、規則に則ってきちんと報告を出していた。アルフィスがシュネルの神殿に居座るという事は、教団内ではそこに赴任した扱いになる。規則どおりの手続きを踏めば、配置報告を出す事になり、居場所が明らかになってしまうのだ。

だからと言って、報告を出さないわけにもいかない。報告義務を怠った事になり、教団の立場が不利になる。

特に報告の義務がなく、「今はどこにいるのか判らない」と言える立ち位置…それが『実地訓練』だった。

ただそれは、アルフィスの周囲の者 −特にレイギン− に迷惑をかける事になる。事情を知った上で、自分を守ると決めてくれた事は本当に嬉しい。実際に会って話をしてみるまでは、とても不安だった。断られると思っていた。請け負ってしまえば、表立ってではないとは言え、王朝を相手にする事になる。いくら第二王妃とは言え、その勢力を公然と動かせるほどの権力はまだないだろう。とは言え、取るに足らない弱小勢力とはとても思えない。命の危険もあるだろう。レイギンの言葉を信じれば、彼はそれを承知の上で引き受けてくれた事になる。

自分ごときのために…そう思うと、胸が痛んだ。

(わたしは、王の申し出を受け入れてもよかったのに)

王の申し出を受け入れる事は、釈然としないのは確かだ。しかし、拒む事で教団が被る不利益は、どれだけ大きなものになるだろう? 何故、かあさまは自分に返事を保留させたのだろう? 教団には、自分をこの歳まで置いてくれた恩がある。どこの何者かも判らないのに。『犠牲』と表現してしまうと王に悪いが、教団のために犠牲になるのはやぶさかではない。

アルフィスはそう考えていたが、教団側では別の思惑が働いていた。彼女が自分が何者なのかを判っていないように、教団もまた、彼女の事を量りかねていたのだ。もし彼女が何か問題を起こしてしまえば、教団の責任にされかねない。第二王妃が勢力を伸ばしている今はなおさら、そんな危険は冒せなかった。

当のアルフィスは、そんな事には全く気付いていなかった。

(どうしてみんな、わたしのためにそこまでしてくれるんだろう)

思い当たる事と言えば、自分の能力くらいしかなかった。確かに自分の魔力は、神殿にいる同年代の者達の中では群を抜いて強い。それどころか、高位の司祭にすら匹敵する。もしそれが理由だとすれば、王の申し出を上回るほど、司祭として期待されている事になる。

自分はその期待に報いる事が出来るだろうか? 魔力だけで言うなら、間違いなく「出来る」と言える。しかし、今の彼女には実績がない。実績の伴わない言葉は、誰も信用してはくれないだろう。

実績を作るには…今の自分に出来る事はなんだろう?

(レイギンさんの助けになるくらいなら、今のわたしにも出来るかしら)

そこまで考えて、アルフィスは思い直した。

出来る。いや、出来なければならない。

そうでなくては、危険を覚悟で彼女の事を引き受けてくれたレイギンに、申し訳が立たない。

しかし、具体的に何が出来るだろうか? まず思いつく事は傷の治癒だが、レイギンはかなりの手練のようだ。彼が負傷するような状況で、そもそも自分は無事でいられるだろうか? そんな状況では、自分の戦士としての能力は、さらに役に立ちそうにない。

(わたしに出来る事ってなんだろう)

答えが出ない内に、いつの間にか彼女は『光の道標』亭の前まで来ていた。

実際に実地訓練に出る前に、一つくらいは答えを出しておこう。そう思いながら、彼女は入口の扉を開けた。




扉を開けた途端、食堂の中程にあるカウンターにいたチュルクと目が合った。

「あっ! アルフィス! こっちこっち!」

彼女はアルフィスの姿に気付いた途端、ものすごい勢いで手招きを始める。彼女の向かいにはレイギンが座っており、陶器のマグカップを口に運んでいた。

「どうしたんですか?」

ゆっくりそちらに向かいつつ、尋ねる。何かあったのだろうか?

「レイギンが、アルフィスに告白したい事があるって!」

その瞬間、レイギンの肩が大きく動いた。首をすくめたようにも見える。

いきなりの事に、アルフィスは鳩が豆鉄砲をくらったような顔になっていた。

「えっ!? あ、ええと、告白って、ええと、何をでしょうか?」

あたふたとしながら、改めて尋ねる。このタイミングでこの場所で、告白されるような事があるだろうか? どういうわけか、レイギンは黙っている。彼はマグカップを口につけたまま右手をチュルクの方に向けると、何かを差すように人差し指を下に向けた。そして、今度はアルフィスの方を指差す。もはや訳がわからない。そもそも『告白』と言ったのに、何故レイギンは黙ったままなのだろうか? 何か怒らせるような事でもしただろうか? いや、それならば『告白』という言葉は使わないだろうし…。

実際の所、レイギンは口に含んだコーヒーを吹き出しかけてしまい、喋るに喋れなかっただけだった。

チュルクには、レイギンの意図が通じているらしい。カウンターの下から何かの帳簿を取り出す。彼女はそれを開くと、アルフィスの方に差し出した。

「はい! 『とりあえずこれを見てくれ。どう思う?』だって!」

黙って帳簿を受け取ると、アルフィスはそれに目を落とした。最初に、『依頼内容』という文字が目に入った。なんとなく、話が飲み込めてくる。

しかし、何故『告白』なのだろうか?

疑問に思いながら、彼女は改めて依頼内容に目を通した。だんだんと、表情が険しくなってくる。

「すごく…具体性が…ないです」

それが何を示しているかは、理解できる。

「アルフィス次第では、その依頼を受ける。意見を聞かせてくれ」

ようやく喋れるようになったレイギンが尋ねてきた。言い終わると彼は、非難に満ちた眼差しをチュルクに向ける。

「『告白』って言うのは気にしないでくれ。チュルクのいつもの冗談だ」

チュルクは、澄ました顔でそっぽを向いていた。

そんな二人のやりとりなど目に入らないといった様子で、アルフィスはぽつりとつぶやく。

「ですが…これは確かに、『告白』かもしれません」
「ん? とりあえず、アルフィスの意見を聞こうか」

興味を惹かれたのだろう、レイギンはアルフィスの言葉を待っている。

自分の分析を試されていると思った。いや、それはアルフィスの考えすぎで、そこまでの事ではないのかもしれない。どちらにせよ、彼女がこの依頼をどう受け取ったのか、レイギンは知りたがっている。

少し自信はないが、アルフィスは自分が感じた事をそのまま話す事にした。

「依頼内容に具体性がないのは、『具体的に書いてしまっては、引き受けてもらえないかもしれない』という気持ちの表れだと思います。その上、この報酬額は、とても安いとは言えません。依頼元が『引き受けてもらえないかもしれない』と考えた理由…この報酬額ですら、『割に合わない』と判断されると考えているのではないのでしょうか? 人探しの障害になる何かがあるのだと思います」
「へぇ!」

何故か、チュルクの方から感嘆の声が飛んで来た。彼女はアルフィスの方を、感心した面持ちで見ている。

「すごいね! あたしだったら、初めてだとそんな所にまでは気が回らないかも!」

彼女が言い終えると同時に、レイギンがさらに訊いて来た。

「他には?」
「断言はしかねますが、既に何日か経過していると思います。極度の衰弱あるいは、死亡の可能性がありますね。先程言った事と併せて考えると、依頼主は救助と言うより、遺留品の持ち帰りを求めている気がします」
「う〜ん、わかっちゃうもんなんだなぁ。あたしたちが悩んでたの、バカみたい」

その言葉で合点が行った。レイギンとチュルクは、彼女が帰ってくるまでこの依頼の内容を検討していたのだろう。となると、自分が懸念材料となっていた筈だ。

「行けそうか?」

レイギンが尋ねてくる。
アルフィスの答えは決まっていた。探す相手がもしまだ生きているなら、自分の治癒魔法が役に立つだろう。まさに彼女の領分だ。脅威が存在するかどうかはまだわからないが、自分は戦闘訓練を受けている。ある程度の相手なら、身を守る自信はあった。

しかし、不安もある。

「わたしは、出来る限りの事をします。でも、わたしでは手に負えない、自分の身を守りきれない時は…」

そこまで言って、はたと気付いた。結局は同じなのだ。相手が魔物だろうと、第二王妃の手の者だろうと。自分が身を守りきれなくなった時、レイギンは本当に守ってくれるのだろうか?

教団は、確かに自分の身を案じてくれているのだろう。居場所を掴みにくくするために、実地訓練に出るよう取り計らってくれた。レイギンという、手練の護衛も着けてくれた。

しかしそれは、違う受け取り方も出来る。厄介者である彼女を体よく放り出し、レイギンに押し付けたとも言えるのだ。

今までは、その可能性を考えないようにしていた。自分が厄介者だとは思いたくなかった。しかし、今の彼女の周りには、教団の者は一人もいない。彼女の事を受け持ってくれた、カルハナすらいない。それが現実だった。第二王妃の件をどうにかするため、彼女自身にかまっている余裕はないのだろう。それは理解しているつもりだ。しかし、心細いのも事実だった。自分は今、経験した事のない環境に、一人で放り出されている。明確に味方と言える存在は、ここではレイギンただ一人しかいない。

(でも、レイギンさんも…)

レイギンの事を信用しない訳ではない。しかし、本当に信用していいのだろうか? 教団と同じように、自分を放り出したりしないだろうか? 思い起こせば、彼女を守るという、確たる言葉はまだもらっていなかった。

自分が途中で言い淀んでしまったためだろう、レイギンは彼女のその様子を、不安によるものだと受け取ったようだ。

「その事態になりそうだと思うか?」

心配そうに訊いて来る。実際のところ、今の彼女には判断しきれない。この依頼は不確定要素が多すぎるどころか、不確定要素で出来ていると言っても過言ではないからだ。

とは言え、と思い直す。

不確定要素はいつだってある。むしろ、ない方が稀だろう。それに、そもそもアルフィスの答えは決まっている。

でも、レイギンの事を信じさせてくれる言葉が欲しい。一言だけでいい。彼の一言、ただ一言が欲しい。

「守ってくださいますか?」
「…そういう事態になりそうかどうかを訊いているんだが」

質問に質問で返され、レイギンは怪訝そうな表情をした。答えられないと言うのなら、まだ理解できる。彼女の返答は、それ以前の問題だった。レイギンの質問を完全に無視して、全く関係のない事を訊いて来ている。

「守ってくださいますか?」

再び、アルフィスが尋ねてくる。彼女の表情には、不安と願いが入り混じっているように見えた。不安はわかる。遭遇するかもしれない脅威に対し、不安になるのは無理もない。しかし、何故願いが混じるのだろう? 彼女の願っている事が何か、それがわからない。

彼女の求めている答えを量りかね、レイギンはすぐには返事を返す事が出来なかった。
彼女は自分の方を見つめている。じっと、自分の答えを待っている。言葉どおりに判断するなら、彼女は単純に、自分が彼女を守るかどうかを訊いているに過ぎない。それは、最初から答えの判っている問いの筈だ。なのに、何故そんな事を訊くのだろうか? 彼女の表情はまるで、諦念の中に一縷の望みを見出そうとしているかのようだ。

(守っては、くださらないのですか…)

そう言われた気がした。はっとして、レイギンは彼女の方を見た。やっと、彼女の求めている事に気付く。

(そういう事か)

不安は、脅威に対するものではないのだ。今のアルフィスは、拒絶の言葉が返って来る事を恐れている。求めているのは、レイギンが肯定の言葉を返す事だ。

(それが前提のつもりだったんだがな)

実地訓練の教官にしろ、第二王妃の件にしろ、本質は同じ事だ。アルフィスを脅威から守る、それが根底にある。レイギンは、それが共通の認識だと思っていた。しかし、彼女にとっては違ったらしい。理由は判らないが、彼女は自分に疑いの目を向けている。いや、この表情は疑いではない。彼女の中には諦めがある。それはおそらく、自分が彼女を守る事を放棄する事に対してだ。何故、そんな風に思う? 一度引き受けた依頼だ。「やっぱりやめた」では筋が通らない。筋を曲げてまで断る程の依頼では…。

(いや、そりゃあそうか)

表立ってではないとは言え、第二王妃に敵対するような真似は、普通の者はしないだろう。「一旦は引き受けてくれたものの、やはり断るのでは」と思われても無理はない。今のアルフィスは、彼の事を信じ切れないのだろう。

それにしても、何故信じ切れないのだろうか?

少し考えてみて、レイギンはある事に思い当たった。

(そう言えば、はっきりとは言ってなかったな)

その事に気付き、彼はばつが悪そうに頭をかく。少し配慮が足りなかった。彼女が欲しがっているのは明確な言葉…彼女を守るという、明確な意思表示だ。

「守って…くださいますか?」

諦念の色を濃くした表情で、アルフィスは三たび尋ねてきた。

もう、彼女の求めている答えは判っている。レイギンは不敵に笑うと、短く言い切った。

「守ってやるさ」
「行きます!」

即答だった。彼女はとたんに明るい表情になると、両手を胸の前で組み合わせた。

「ありがとうございます! 嬉しい!」

舞い上がっていると言ってもいいほどの喜びようだった。それは、今までの彼女の不安の程を伺わせた。

二人のやりとりを黙って見ていたチュルクが、呆れた表情をレイギンの方に向ける。

「レイギン、アルフィスにきちんと言ってなかったんだね、守ってあげるって。そういう事は、思ってるだけじゃなくて、きちんと言ったげなきゃダメだよ!」

彼女は、すっかり明るい雰囲気になったアルフィスの方を一瞥して続ける。

「ほら見なさい! やっぱり『告白』になっちゃったじゃない!」

レイギンは、さすがに何も言い返す事が出来なかった。




依頼を受ける事で話は決まった。レイギンはすでに出発の準備を終えており、馬車の確保も済ませていた。アルフィスの準備さえ済めば、いつでも出発できる。

「どの位で準備できる?」
「半刻…いえ、四半刻かけずにやります!」

アルフィスは威勢よく答えると、二階へ上がって行こうとする。

そんな彼女を引き止め、レイギンは尋ねた。

「昼メシはどうするんだ?」
「そうですね…チュルクさん、早く作れて、すぐに食べられるものはないですか!?」
「具だくさんのサンドイッチでも作ろうか?」
「それをお願いします!」

舞い上がっているのか、彼女の語勢はいつになく強い。

階段を登っていく彼女の後姿に目をやりながら、レイギンは心配そうにつぶやいた。

「舞い上がってるみたいだが…大丈夫か、あれで?」
「そこは、レイギンがフォローしてあげないと!」

言い終えると、チュルクは厨房に入って行ってしまった。

「そうだな」

誰に言うとでもなく、レイギンはつぶやく。

アルフィスは見習いの司祭として、色々と気負う所があるのだろう。そうでなくても、初めての仕事だ。舞い上がってしまうのは無理もない。
だがあの調子では、何かの拍子に致命的なミスをやらかしてしまいかねない。機会を見つけて注意しておこう。

カウンターの近くには、レイギン一人が残されている。何もせずにアルフィスを待っていても仕方がない。レイギンは床に置いておいた背負い袋を開き、携行品の確認を始めた。携行食である3日分の乾パンと、水を入れるための皮袋。水自体はレルトの村で調達する予定なので、今は空気を抜いて平たくしてある。携行食は、やむを得ず村に戻れなかった時のためのものだ。安全のため夜には村に戻るつもりなので、本来これだけの量は必要ない。しかし、アルフィスが出発までに準備しきれない可能性があるため、多めに用意しておいた。

他にはコンパスとロープ、応急手当のための道具一式。一番最後は、アルフィスがいれば必要ないかもしれない。オイル式の金属ランタンも用意しているが、アルフィスは魔法の明かりを作る事が出来るのだろうか? 基本的な魔法であれば、一通りは使えると言っていたが…もし出来るなら、これも必要ない事になる。レルトの村付近の地図は調達できなかったので、現地に着いたら入手を試みてみよう。

他に入れていたものは…細かい作業が必要になった時などのために、針金や細工道具を邪魔にならない範囲でまとめたものも入れておいたが、おそらく今回は必要ないだろう。とは言え、必要になる状況が出てこないとも限らない。持って行っても損はない筈だ。背負い袋には入れていないが、短弓と矢筒も用意してある。後は…。

レイギンは左手をジャケットのポケットに突っ込むと、小さな布の袋を取り出した。中には乾しブドウが詰められている。行動食だ。塩分の補給も出来るように、塩をまぶしてある。

(アルフィスの口には合わないかもしれないな。それにしても、そんなに不味いものかね、これは?)

彼自身はそうは思っていない。しかし、以前実地訓練を受け持った二人には、共に不評だった。乾しブドウの甘さと塩の辛さが混じって、味として『気持ちが悪い』のだそうだ。二人のうち一人 − 神官戦士志望の少女 − などは、「美味しくない! そんなもの食べたくない!」 などと言って、二度と口にしようとしなかった。結果として彼女は行動中に『シャリばて』を起こしてしまい、動けなくなってしまっていたが。

−ランプの火は、油がなくなれば消えるだろう? 人間も同じだ。活力の素になるものを摂りもしないで動き回れば、いずれは動けなくなる。基本は朝昼晩の食事だが、それでもまかない切れない場合は、行動中に摂るしかない。

そう諭し、普通の乾し果物でいいので用意しておくよう言うと、さすがに懲りたらしい。彼女は次の日からはそれを用意して来ていた。

そんな事を思い出していると、アルフィスが階段を降りて来た。二階に上がって行ってから、ものの10分も経っていない。

「はっや〜い!」

サンドイッチとマグカップを載せたトレイを持って戻ってきたチュルクが、感嘆の声を上げる。

「こんな風に、急な出発になる場合もあると思いましたので…」

照れくさそうに微笑むと、彼女は言葉を続けた。

「昨日神殿から荷物を持って帰った後、すぐに準備しておいたんです」

彼女は畳んだマントを左腕にかけ、右手に背負い袋を提げていた。その身には鎧をまとっている。

その姿を見たレイギンは、これ以上ないほど顔を引きつらせた。

「アルフィス…おまえ…」

なんとか言葉を絞り出せたとでも言える様子だった。

「その…鎧…」

彼の様子を、アルフィスはきょとんとした表情で見ている。

彼女の鎧は、どう見ても金属鎧だった。鈍い白銀色の胸部装甲は、首周りまで彼女の上半身を覆っている。装甲を兼ねてなのだろう、首元には、リーライナのシンボルを刻み込んだプレートが着けられていた。肩当ては大きく、彼女の二の腕の半ば近くまである。その縁には肩布が着けられていた。その先に目をやると、これまた金属製の篭手が目に入る。表裏二分割式になっているそれを、皮手袋の上に着けているようだ。彼女は長いスカートを穿いているため、脚部装甲を着けているかどうかはわからない。もし着けているなら、それも金属製だろうか? この調子だとあり得そうだ。

(全身鎧よりはマシとは言え…騎馬戦しに行くんじゃねぇんだぞ…)

森の中を探索して歩き回るのだ。いくらアルフィスが体力面で長じていると言っても、これでは重さと動きにくさで、すぐに動けなくなってしまってもおかしくない。

しかし…何か違和感がある。彼女が身に着けているのはあからさまに金属鎧なのだが、何だろうか、あって然るべきものが無いように感じるのだ。

その事もあり、レイギンの視線は彼女の上半身に釘付けになっていた。それをどう受け取ったのか、アルフィスははにかんだ笑みを浮かべ、隠すように両手を胸の前で交差させた。

「これ、わたしがずっと使っている鎧なんです。少しは様になっていますか?」

恥ずかしそうに、つぶやくようにそう言う。

言い終えると彼女は両腕を開き、その場でくるりと回った。肩当ての下に着けられた肩布と、スカートの裾がふわりと浮き上がる。まるで、お気に入りの服を自慢しているかのようだ。

…まただ。なんだ、この違和感は?

やはり、あるべき何かがない。その正体が判らないのは気持ちが悪いが、それについては後回しでいいだろう。

レイギンは気持ちを落ち着かせるように大きなため息を一つつくと、苦虫を盛大に噛み潰したような表情で口を開いた。

「そんな格好で森の中を歩き回るつもりか?」
「そうですよ?」

彼女は、何故そんな事を訊かれるのか理解出来ていないらしい。再びきょとんとした表情になる。

「重い分体力の消耗が激しい。それに、派手に音も立てる」

レイギンの声のトーンは、いつになく重くなっていた。アルフィスには、彼が感情を押さえつけようとしているのがはっきりと判った。そうしないと、怒鳴ってしまいかねないという事なのだろう。

そんな様子のレイギンを見て、アルフィスはおかしそうにくすりと笑った。

「音、していますか?」

彼女は微かに俯くと、握った左手を口元に当てた。悪戯っぽい表情になっている。
言われてやっと、レイギンは違和感の正体に気付いた。

「どうして音がしない?」
「消音の魔法をかけてあるんです。少しは音を立てますけど、皮鎧と遜色ないと思いますよ。もちろん…」

今や、彼女は自慢げな表情になっていた。

「軽量化の魔法もかけてあります! 軽いですよ!」
「ふむ…」

半信半疑の表情で、レイギンは彼女の鎧を見ていた。彼はしばらくの間黙ってそうしていたが、何を思ったのか彼女の背後に回り込む。そして、おもむろに彼女の両脇に手をかけた。

(えっ!?)

何を意図しての事なのか判らずアルフィスが戸惑っていると、レイギンは彼女の体を少し持ち上げた。

「確かに、軽いな」

そのまま、彼女を降ろす。

「抱えて走っても大丈夫そうだ」
「え? あ? はい」

彼の取った行動が予想外のものだったため、アルフィスはまともな返事をする事が出来ない。

そのまま放っておくと、彼女が気を取り直すのに時間がかかると思ったのだろうか、レイギンはアルフィスの方を一瞥する。次に彼女の背負い袋を一瞥した後、サンドイッチの載ったトレーの方を見て、口を開いた。

「もう準備する物がないなら、メシを食え。それが終わったらすぐに出るぞ」

再び彼女の方を一瞥すると、彼は続けた。

「それにしても、アルフィスは軽いな。鎧の分を勘定に入れても、もう少し重いと…」
「あ〜っ! なんて事言うの!」

今まで黙っていたチュルクが突然、両手をカウンターに叩きつけた。表情からは、憤慨した様子が見て取れる。

「体重は、女の子108の秘密の一つなのに!」
「煩悩と同じ数なのか?」

レイギンの冷静な突っ込みに、チュルクの動きが固まった。間の抜けた沈黙が辺りを支配する。

彼女は一瞬そっぽを向くと、聞こえよがしに咳払いをした。そして、気を取り直したように再びレイギンの方を向くと、彼の方を指差しながら言い放つ。

「それにさっき、アルフィスの体を持ち上げたとき、どさくさに紛れて胸を触ろうとしたでしょ!」

口調は紛れも無く非難の色に満ちていたが、どことなく芝居がかっている。

彼女は急ににやにやした表情になると、両手を口元に当てて言葉を続けた。

「レイギンったら、やっらし〜!」

どうやら憤慨した様子は、実際に芝居だったらしい。

「も〜! ホント、女の子には見境いないなぁ〜! ほら、アルフィスも何か言ってやりなよ!」

レイギンはチュルクの言うに任せていたが、いつの間にか無表情になっていた。
アルフィスには、「ぶちっ!」という音が聞こえたような気がした。

(レ、レイギンさん、お、怒ってる?)

彼はつかつかとチュルクの方に歩いて行った。
そして…。

「いった〜い!!! グーでやった!!! グーでやった!!!」

チュルクは頭の一番上を両手で押さえ、目の端に涙を浮かべていた。相当痛かったらしい。

「これ以上バカになったらどうするの!」

彼女に拳骨をくれたレイギンは、呆れ顔でチュルクの方を見ている。

「余計な冗談で話を引き伸ばすな。それだけならまだしも、アルフィスまで巻き込むな。いつまで経っても、アルフィスが昼メシ食えないだろ」

非難を体で表すように、レイギンは両手を組んでいる。彼が怒ったのは、その点についてだったらしい。

レイギンは顔だけアルフィスの方を向くと、少し申し訳なさそうな表情で言った。

「こっちに付き合ってたら、昼メシを食うタイミングを逃すぞ。今の内に食っとけ」
「あ、はい」

確かにレイギンの言う通りなので、食事を始める事にする。今までのやりとりのせいで緊迫感は全くないが、本来は出発のために急がなければならない筈だ。

レイギンは再びチュルクの方に顔を向けると、深いため息をついた。表情は見えないが、どうやら呆れ返っているようだ。

「バカって自覚はあるんだな」
「なによそれ! 少しは心配してくれてもいいじゃない!」

彼女はまだ頭を押さえている。

「心配するな。手加減はしておいた」
「当たり前だよ! 短剄でも打ち込まれたりしたら、あたし死んじゃうよ!」
「試しにやってみるか? 頭が良くなるかもしれないぞ?」

レイギンの言葉に、チュルクの顔が青くなった。彼女は両手を開いてレイギンの方に突き出すと、目いっぱいの拒絶を示すようにぶんぶんと振り始める。

「やだよ! 頭が爆発しちゃう! そんな死に方いやだよ!」

本気で嫌がっている。それならば、余計な事は言わなければいいのに…アルフィスはそう思う。打ち込まれるのがそこまで嫌な技ならば、引き合いに出さなければいいだけだ。

(それにしても、頭が爆発するなんて…どうやったらそんな事を思いつくのかしら?)

そこまで考えて、アルフィスは「おや?」と思った。「頭が爆発する」のくだりはこの際どうでもいい。誇張のように思えるからだ。しかし、気になるのはそれより前の話だ。今のやりとりから判断する限りでは、レイギンは件の技を使えるように聞こえる。拳で打ち込む技のようだ。ならば、拳士の使う技という事になる。剣士であるレイギンが、どうしてそんな技を使えるのだろうか?

サンドイッチを口に運びながら、アルフィスはレイギンとチュルクの方を見た。よく考えてみれば、レイギンの方はまだわからないでもない。剣を取り落としてしまった時などのために、素手での格闘術を習得していてもおかしくなからだ。

しかし、不可解なのはチュルクの方だ。どうして、レイギンがそんな技を使えるのを知っているのだろうか?

そんな風に思いながらチュルクの方を見ると、彼女はいつの間にかすごい剣幕になっていた。カウンターに両手をついてレイギンの方に身を乗り出し、激昂した様子で言葉を投げつけている。

「言うに事欠いて、自業自得なんて何よ!」

レイギンはうんざりした表情でチュルクに背を向け、左手の人差し指を耳の穴に突っ込んでいた。彼女の逆鱗に触れるような事でも言ってしまったのだろうか?

誰かが独り言のように、「また兄妹ゲンカが始まった」と言った。それに応えるように、あちこちからひそひそ声が上がる。

 「犬も食わねぇ」
 「平常運転ですね」
 「チュルクサン、レイギンサンには遠慮がないデスカラ」
 「なに、ちょうど良い昼食の余興です」

どうやらいつもの事らしい。それにしても、散々な言われようだ。

そんな風に言われている事に気付いているのかいないのか、チュルクは矢継ぎ早に言葉を発していた。

「女の子はもうちょっと優しく扱いなさい! そんなんだからいつまで経っても彼女が出来ないんだよ! あたしが色々と気を回してあげてるのがわかんないの!?」

ひょっとして今までの冗談の数々は、レイギンに気を回したものだったのだろうか。もしそうならばとても判りにくいし、効果が上がるとも思えない。
アルフィスはそう思ったが、突っ込みたくなるのを何とか押さえた。ここで突っ込んでしまえば、怒りの矛先が自分に向いてしまいかねない。

しかし、我慢しきれなかった者達もいたようだ。

 「わかるかよ…」
 「からかッテ遊んでいるようにしか思エマセンガ…」
 「ありがた迷惑だよね」
 「そこまで言うなら、チュルクさんが彼女になってあげればいいのに」

どれももっともな意見だと思う。
そしてそれは、やはりチュルクの気を引いてしまったようだ。

「何か言った!?」

チュルクは声のしている方を、きっ、と睨んだ。彼女の視線の先にいた一団のうちの何人かが、異常に素早い動作でそっぽを向く。
途端に、辺りは水を打ったように静まり返った。

チュルクはしばらく黙ったままそちらを見ていたが、野次を押さえつける事が出来たと判断したらしい。レイギンの方を向くと、再び言葉をぶつけはじめる。

「バカ! ヘンタイ! 人でなし! あんたなんか、パンのカドに頭ぶつけて死んじゃえ!」

よくもまぁ、そこまで遠慮なしに言えるものだと思う。
それにしても、パンの角とはどの部分の事だろう? 角があるような、四角いパンなど見た事がない。

そんな事を考えているうちに、アルフィスはいつの間にか、先程チュルクに対して抱いた疑問を忘れていた。




際限なく続くと思われたチュルクの罵詈雑言は、意外にすんなりと治まった。
アルフィスが食事を済ませたタイミングに合わせて、レイギンがチュルクに頭を下げる。

「済まなかったな。今度から気をつけよう」

言いながら、彼はアルフィスの方を一瞥する。その仕草で、チュルクは彼の意図するところを察したようだ。

「あんまり出発を引き伸ばしちゃいけないもんね。いいよ、今日の所は許してあげる!」

ふてくされた表情で両手を腰に当て、チュルクはそう言った。
彼女は「フンだ!」と一言漏らすと、アルフィスの方に向き直った。

「アルフィス、行ってらっしゃい! 初めてのお仕事だから大変だろうけど、がんばってね!」

今までレイギンに向けていた表情が嘘のように、にっこりと笑っている。

「はい。行ってきます」

アルフィスは何とか微笑み返したが、内心は釈然としないものがあった。

(初めてのお仕事なのに…)

出発前から、盛大にケチがついてしまったような気がする。

(まぁいいか。馬車に乗っての移動だし、その間に気持ちを切り替えよう)

彼女のそんな思いは、レイギンが確保していた馬車を見た瞬間、粉々に砕け散った。

(こ、これって人が乗るものなのかしら!?)

アルフィスは、そう思わずにはいられなかった。人が乗るための馬車と言うよりは、荷馬車と言った方がしっくりくる。粗末な荷台には座席などなく、申し訳程度に四方を木の板で囲んでいるだけだ。とてもではないが、快適な空間とは言い難い。唯一の救いは、二人で乗るには十分過ぎる広さがある事ぐらいだ。

「レルトの村まで全速でですねい! 飛ばしますぜい!」

二人が馬車に乗り込むと同時に御者はそう言い、馬車馬に思い切りムチをくれた。がくりと車体が揺れ、すごい速さで前進しはじめる。

「わ! わ! すごく、揺れるの、ですね!」

声がうわずっているのが、自分でもわかる。揺れる事はある程度予想していたが、ここまでひどいものだとは思っていなかった。

「い、いつも、こんな風に、移動、わ! しているのですか? これで、は、目的地に着く前に、へと、へとに…」

揺れのため上手く話せない。しかし、戸惑いのため、何か喋らずにはいられない。
そんな彼女の心情を知ってか知らずか、レイギンは彼女の言葉をぴしゃりと遮った。

「黙っとけ。舌を噛むぞ」

おろおろしている自分と違い、レイギンは落ち着き払っている。慣れているのだろう。
彼の言う事は判る。しかし、もう少し…自分を安心させてくれるような事を言ってくれてもいいのではないだろうか?

「でも、そんっ」

レイギンに反論しようとした彼女の言葉は、そこで止まった。実際に舌を噛みかけてしまった。ここで本当に舌を噛んでしまっては、恥ずかしいにも程がある。さすがにそれは嫌だったので、彼女は黙っておく事にした。

しかし、それならそれで、何かしていない事には落ち着かない。出来れば装備や携行品の点検をしたい所だが、こう揺れが大きくては思うようには行かないだろう。最悪、背負い袋の中身をぶちまけてしまいかねない。

仕方がないので、アルフィスはレイギンの装備を観察してみる事にした。いつも身に着けているジャケットの前を閉じ、その上に鎧を着けている。鎧と言っても簡素なものだ。胴体部分は、正三角形に近いかたち、その頂点を切り落とした六角形のプレートを左胸に着けているだけに過ぎない。彼の携行品に短弓があったところを見ると、弓弦がその部分に当たるのを防ぐためのものなのだろう。左肩に肩当ても着けているが、防御装備と言える物はそれだけだった。右腰に佩いた剣は、そう長くない。3ハンテ(約45cm)くらいだろうか? どちらかと言えば短剣の部類に入るだろう。鎧が軽装である点から見ても、敏捷性を武器とするタイプと考えて間違いなさそうだ。左腰にナイフを3本差しているが、これは投げるためのものだろうか?

自分がじろじろ眺め回していたせいか、レイギンがアルフィスの方を向いた。軽く笑っている。どうやら、装備を観察していた事に気付いているようだ。

「そういうのは悪い事じゃないがな」

その事をたしなめられるかと思ったが、そうではないようだ。

「あまり長い事下を向くなよ」

確かに、視線を上から下へと巡らせたので、アルフィスは俯き気味になっている。しかし、それだと何か不都合があるのだろうか?

「酔うぞ。遠くの風景でも見とけ」

別の理由ではあったが、やはりたしなめられた。しかし、そうなると一体何をしておけばいいのだろうか?

自分が困った顔をしていたせいか、レイギンは彼女の心情を察したようだった。腕を組んで、何かを思案しているような表情になっている。

少しして彼女の方を向くと、レイギンは口を開いた。

「頷いたりする位だったら、問題ないだろう?」

確かに、それならば舌を噛む心配はないし、酔う事もなさそうだ。アルフィスは黙って首を縦に振る。

レイギンは先程アルフィスがやったように、彼女の頭から足先へと視線を巡らせた。

「俺から見れば、その格好は怪しい以外の何者でもないんだが…」

今のアルフィスはマントで全身を覆っている上、頭布まで被っている。ほぼ完全に全身を覆っているので、確かに怪しげな印象はあるかもしれない。

「いつも思うんだが、本当に大丈夫か?」

レイギンは半信半疑の表情で尋ねてきた。

彼女は首をこくこくと振ると、首元に着けている小さなプレート − リーライナの信徒である事を示すシンボル − を指差す。

「リーライナの信徒だと判るから、大丈夫って事か?」

再びこくこくと頷く。

特にここリーライナ自治領では、リーライナのシンボルは何よりも確実な身分証明となる。しかしレイギンには、その事がいまいち信じきれないようだ。表情が納得していなかった。彼は隣国シャールの出身らしい。この街に来たのは3年ほど前だと言うから、まだ実感し切れていないところがあるのだろう。あるいは、制度や風習としてわかってはいても、行動原理としては理解出来ないのかもしれない。

(ここはそういう所ですから)

そう伝えようとしたが、身振り手振りではどうやって表現していいかわからない。あれこれ考えてみたが、結局無意味に腕を振ったり、手を開いたり閉じたりするだけになってしまった。

レイギンは、わけがわからなさそうに彼女の仕草を見ている。何かを伝えようとしている事は判っているようだが、何を伝えようとしているかはさっぱり判らないようだ。それはそうだろう。自分だって、こんな身振り手振りをされても、何がなんだか判らない。

彼女の伝えたい事を理解するのは無理と判断したのか、レイギンは別の話題を振って来た。

「鎧に軽量化と消音の魔法をかけてるって言ってたな。どの位もつ?」

アルフィスは両手を開き、彼の方に掌を向けた。レイギンが怪訝そうな表情をする。

「10…10刻か?」

ぶんぶんと首を振る。

「それはそうか。昨日かけたのなら、10刻ならもう効果が消えてる筈だな」

そこまで言って、レイギンは気が付いた。昨日ティムが言っていた、「気合が入っている」とはこの事だったのか。

アルフィスは、自分が伝えたい事をどう表現したらいいか考えているらしい。少し黙り込んだ後、おもむろに頭上を指差した。つられて、レイギンは上を見る。太陽の強い光が目を射した。

「陽…10日って事か?」

彼女は喜んだ様子で何度も頷いた。意図が通じたのが嬉しいのだろう。

「長いな。ティムがそういう魔法をかけてくれる時は、長くても1日位だった気がするが…」

(ああ、そのせいか)

レイギンは今になって、彼女の消音の魔法に気付けなかった理由に思い当たった。出発前からそういった魔法をかけていた者は、彼が知る限りいなかった。持続時間のためだろう、かけ手によっては、戦闘が予想される直前だった時もある。
『光の道標』亭に出入りしている魔術師の中では、ティムが最も強い魔力を持っているように思える。しかし彼にしても、数日に渡って効果が持続する魔法をかけてくれた事はない。

「手を抜いていたのかね」

それは違う、アルフィスはそう思った。その事を伝えるため、ぶんぶんと首を振る。しかし、それから先をどうやって伝えていいかがわからない。自分の伝えたい事を身振り手振りで表現する方法を考えるのは、それなりに面白いのだが、少し複雑な内容になると途端に伝えられなくなる。それに、これではまるで、引っ込み思案で無口な女の子のようだ。

そんな風に考えているうちに、彼女はふと気付いた。いつの間にか、揺れが気にならなくなっている。これなら、舌を咬まずに話せるかもしれない。

「ティムさんは、手を抜いていたわけではないと思いますよ」

試しに、今考えていた事を言ってみる。どうやら大丈夫そうだ。

レイギンは驚いた表情で彼女の方を見ると、感心したような口調で言った。

「もう揺れに慣れたのか? 早いな」
「慣れたみたいです。これで普通にお話しできますね」
「普通に話せるようになったのはいいが、話し疲れてへたばるなんて事のないようにな」
「あら! そんなになるまでお話に付き合ってくださるんですか?」

おかしかったのか、アルフィスは口元に手を当ててくすりと笑った。

程なく、馬車は街外れに近づいてきた。もう少しで街の外に出る。シュネルは防御壁を持たない街なので、外部との明確な境界線はない。しかし、街道沿いの部分に関しては、はっきりと境界が判った。街の外から来た者達、これから他の場所へ発つ者達を目当てにして、商店が立ち並んでいるのだ。雑貨屋や食料品店が立ち並んでいるその場所は、ちょっとした商店街になっている。

何の気なしに、アルフィスはその場所を見渡してみた。客足が途切れているのだろうか、店員と思われる者が数人、商品を補充したり、陳列を直したりしている。

その中の一人が、手を止めてこちらに顔を向けた。やわらかそうな薄い茶色の髪を肩まで伸ばした、大人しそうな少女だ。年の頃は、アルフィスと同じか少し上くらいだろう。
彼女は何かに気付いたようにこちらに向き直ると、右手を大きく振り始めた。

「お〜いっ! レイにぃっ!」

大人しそうな外見とは裏腹に、元気のいい声だった。明らかに自分達に向けての言葉だ。アルフィスは彼女の事を知らないから、レイギンに向けての言葉なのだろう。そう思って彼の方を見ると、困ったように顔をしかめ、左手を顔に当てていた。

「いってらっしゃ〜い!」

彼女の言葉に応えてか、レイギンはぞんざいに手を振っている。知り合いなのだろうか? もしそうなら、そう邪険に扱う事もないだろうに。

「お知り合いですか?」
「ああ。そんなところだ」
「レイギンさん、なんだかお困りのようですけど…」
「大した事じゃない。気にするな」

困ってはいるが大した事ではない、一体なんだろうか? あの少女は店員のようだから、見つかってしまうと何か売りつけられるのかもしれない。それ以外に考えられるのは…レイギンがあの店をよく利用するので、あの少女はレイギンによくかまってくる。しかし、レイギンの方ではそれを煙たがっている…そんな事くらいだ。少女とレイギンとの関係は、店員と客以外に思いつかなかった。

そんな事を考えながら、アルフィスは馬車が進んでいく方向を見た。遠くになだらかな山地が見えるが、あれが目的地だろうか。レイギンやアルフィスが予想した通り、脅威は存在するのだろうか。そして、無事に依頼を果たす事が出来るだろうか。

道ははるか遠くまで続いている。ずっと、真っ直ぐに。

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