0.プロローグ
夜の街道を行くものがいた。
ひどく落ち着かない素振りで歩いていた。
簡素な旅装束をまとった彼の後ろにもう一人、同じような姿の者がいる。
降るような星空のもと、二つの影だけが歩いていく。
青年はふと立ち止まり、もう一人の方を見た。
不思議そうに首をかしげ、もう一人の者は見つめ返す。
小柄で、まだ少女でしかない彼女は。

(この子を頼みます)

最高司祭はそう言った。

(この子を、王の手の届かない所へ)

できるわけがない。
ただ、あがくくらいは出来るだろう。
思いつつ、彼はまた歩き出す。
少女は少し遅れてついて来る。
先はまだ、長い。
1.『光の道標』亭
目の前に巨大なヘビの頭が有る。牛の頭以上はあろうというものが。
それも一つではない。全部で八つ。三角形に近いかたちをしたそれらは、前牙類と言われる類のものに良く似ていた。強力な毒を持っている事を、なによりも雄弁に物語っている。
それ以前に、これ程の大きさだ。咬まれただけでもただでは済まないだろう。

(話が違う!)

薄く水が張った足元には、落ち葉が深く降り積もっている。固い地面の時ほど、素早い動きは出来そうにない。

(タイミングをずらして仕掛けてこられると、まずいな…)

八つのヘビの頭は、ちろちろと舌を出しながらこちらを伺っていた。

「う、うわぁぁぁぁぁ!」

聞きたくもない男の悲鳴が響き渡る。
八つの塊が、すっ、と後ろに引いた。

(来る!)

一斉に口を開き、その中に折りたたまれていた長い牙が前を向いた。同時に、牙を突き刺そうとするような動作で飛びかかって来る。幸いだったのは、それらが全く同時に飛びかかって来た事だ。八方から飛びかかって来られているとは言え、タイミングが同時である以上、狙っている場所は『点』でしかない。右斜め後ろに跳び退ると同時に、左手の剣を薙ぐ。飛びかかって来た頭の一つが斜めに切り落とされ、落ちる。

ばしゃり、と水音が立った。切り落とされた頭から流れ出た血が、周囲の水面を朱に染めた。

(まずは、一つ!)

今度はこちらから仕掛ける。
右足に地面の感触を認めたと同時にそれを蹴り、右斜め前に低く跳ぶ。空中で向きを変えながら、目標を見失って勢い余った頭の一つに剣を叩きつけた。狙った場所は、頭の付け根だ。丸太のようなそれに剣が吸い込まれ、一瞬後に頭部が落ちた。切り落とされた痕から、鮮血が吹き出る。

(二つ!)

着地と同時に真後ろに跳び退り、少し距離を取る。いくら八つの頭部を持つと言っても、その全てを切り落としてしまえば、生きてはいられない筈だ。持久戦になるかもしれないが、着実に一つずつ切り落としていけばいい。

しかし、そう簡単には行きそうになかった。最初に切り落とした部分を見ると、早くも出血が止まっていた。頭蓋骨が覗いている筈のその場所は、桃色の肉に覆われている。その表面からは、小さな鱗のようなものが浮き出して来ていた。

(なんて再生の早さだ!)

知識として知ってはいたが、予想を遥かに超えている。状況は、思った以上に悪いようだった。

(あっちは一撃で事が済むが、こっちは最低でもあと六回…不公平過ぎるな)

嘆いても、仕方がない事は判っている。今は、出来る事をするしかない。

「来いよ、ヘビ野郎! 遊んでやる!」

残る六つの首が、改めてこちらを向く。

そこで、目が覚めた。

「ああったく、夢にまで出てきやがるか、あんなろう」

レイギン・シュヴァルツはぼやきつつ、ぼりぼりと頭をかいた。


大陸の東方に位置する大国、フラード。
王制を敷く国家の中でも特に古い国家のうちの一つで、250年の歴史を誇る。
国土は平野が多く、北のダルカナ山脈からは銀や鉄を産するため国は豊かで、国土を貫く大河は2本。
その一つであるライナ川は西の領地、リーライナと呼ばれる神を信じる者達の自治領と、本国の領土との境界線となっている。

北にクィーリアという大国、西にシャールという小国と接しているこの国は、この大陸では比較的治安のよい所と言えた。

というのも、この大陸の西方は今、ひどい混乱状態にあり、群雄割拠の状態となっている。その中では、ズィリディナ神国、ドルニパルという二国が力をつけてきており、特にドルニパルはシャールのすぐ西であるため、フラードとしても無視できない。
そんな状態ではあったが、とりあえず人々は平和にやっていた。

レイギンが今いるのは、リーライナ自治領の街、シュネルである。南に行けば港町ツェルニッヒ、北へ行けば自治領の中央都市リウ・リーライナ。だからと言ってこの街に何か特産があるという訳でもなく、ただの街道沿いの街だ。他の街と違う所と言えば、西にあるなだらかな山地の影響か、平地よりも丘が多いくらいで、付近に点在する村々と農地以外、目に付くものは有りはしない。そんな街である。

当のレイギンはというと、しかめっつらで朝食のパンを口に運んでいた。多分、味などまるでわかっていないのだろう。

「よォ、レイギンよぉ。どうした?」

傭兵風の大男にそう言われ、彼はそちらに顔を向けた。レイギンは背が高い方なのだが、男の方はもっと高い。2mを超えているかもしれない。

「なんでもない。こっちの事だ」

不機嫌そうにそう答える。

「じゃあ、やめてくれや。隣でずっとそんな顔されてちゃ、こっちのメシまでまずくなっちまわぁ」
「へいへい、ごもっとも」

彼は答えるようにその金髪をかき回したが、表情はまるで変わっていなかった。彼はどちらかと言うと目鼻立ちが整っている方…の筈なのだが、髪は伸ばすに任せてボサボサ。最近はバンダナをして目にかからないようにしているのだが、それにしてもひどいものはひどい。身に着けているジャケットも、元は青色だったのが、だいぶ色が抜けてしまっている。もっとも、本人はまるで気にしていないようだ。

「レイギン、さっきからむっす〜っとして。何か悪い事でもあったの?」

エプロン姿でお下げ髪の少女が、そう言いながら近づいてきた。ぱっちりとした目が印象的だ。彼女の名はチュルクといい、ここ『光の道標』亭の看板娘とでも言った所か。看板娘と言うだけあってそれなりにかわいいが、ここは一般の人間は殆ど立ち寄る事のない『冒険者の店』である。この類の店に来る客は殆どが固定客の上、客の大部分を占める冒険者の大半はここを宿としている。そのため、彼女の役割はあまり意味がないのではないかという説もあるが、そこはそれ。仕事から帰って来た冒険者は、彼女を見るとほっとするそうなので、存在価値はあるのだった。

彼女はレイギンの向かいに腰をおろすと、彼の機嫌が悪いのにもかまわずぽいぽい言葉を投げかけ始めた。

「何か悪い事、あったんじゃない?」
「別に。何もない」

答えるのも億劫だという様子でそう言うと、レイギンは口に運んだパンを乱暴に噛み千切る。

「うそばっか」
「チュルクに嘘を言って何の得がある?」
「得があるから言うんだと思う」

レイギンは答えず、不機嫌そうに野菜のスープを音を立ててすすった。

「お行儀、悪いよ」
「ゴブリンに王錫、雇われ剣士に礼儀」

どうやら、あっても無くても変わりはない、と言いたいらしい。
チュルクはこくんと首をかしげると、つぶやくようにぽつりと言った。

「蛇、強かったの?」
「ただの蛇だったらあんな苦労はしない。第一、水辺に住み着く蛇がこの辺にいるか」

ばつが悪そうな表情で答えるレイギンを見て、チュルクは大まかな事情を察したようだった。

「大蛇なんて書いてあったけど、もっと強い何かだったんだ? 蛇頭? 半蛇? それとも飛蛇?」

レイギンは黙って首を振る。
順番に、首から上が蛇であとは人間・それとは逆に上半身が人間で下半身が蛇・コウモリの翼を持つ蛇で、どれも一人で相手をするのはかなりきついものばかりだ。もっとも、熟練した冒険者ならば一人でも何とかなるし、レイギンはその条件を満たしている。

「ぜぇんぶ違うの? だったら何かなぁ?」
「八つ首」

ぶっきらぼうにレイギンはつぶやいた。同時に、周囲から「おおっ!」という声が漏れる。チュルクなどは、目を真ん丸にしている始末だ。

「よく生きて帰ったね! どおりで服、ボロボロだったわけだ…」

声の調子まで、幽霊を前にしたようなものになっている。
たまっていたものの押さえがついに吹っ飛んだのか、レイギンはぶつぶつと毒づき始めた。

「全く…大蛇一匹だって言うから一人で行ったら、あれのどこが大蛇だってんだ! 話が違う!」

大蛇とは言っても、一般的に言われる『大蛇』は、ただの大きな蛇を指してはいない。体長5クルート(約6m)を超し、強力な毒を持つ一群の総称として使われる。当然、一般人にとっては十分脅威である。

「要らないってのに村長は道案内つけるわ、そいつのおかげで道にはさんざっぱら迷いあげるわ、泉に着くのは夜中になるわ」

村長の責任もあるにはあるが、レイギンの方にも責任がありそうなものだが…。

「蛇だって言うからあたりに住んでる手がかりを探そうとすりゃあ、いきなり水の中から出やがるわ、道案内は腰抜かしてへたりこむわ」

「夜は危険だ」とでも理由を着けて、仕切りなおして次の日に一人で行くという選択は出来なかったのだろうか?

「一人で自由に動き回れるならまだしも、注意がそっちに行かないように戦わねぇといけなかったからな。余計な制約作りやがって! 生きて帰れたのが不思議なくらいだ」
「け、結果オーライだよ? 無事に帰って来れて良かったじゃない?」

うわずった声でチュルク。どうやら、ねぎらいや励ましの言葉をかけたかったようだが、そんな言葉しか思いつかなかったらしい。

もっとも、彼女がそうなってしまうのも無理はない。八つ首という魔物は、単純に『八つの頭を持った大蛇』ではないからだ。強力な毒を持ち、強靭な顎の力は丸太ですら噛み砕くと言われ、並みの技量では手傷を与える事すら出来ない程の強固な鱗を持つ…ここまでなら、あくまで『巨大な危険生物』に過ぎない。八つ首の移動速度はそう速くないため、遠距離から飛び道具や魔法を使って倒せばよい、という事になる。実際にその方法で倒した例はあるようだが、それは少数の例外でしかなかった。

できないからだ。

八つ首は、強力な再生能力を持っている。いくら遠距離から攻撃を続けても、再生能力を上回れなければ意味がない。飛び道具にしろ魔法にしろ、無尽蔵に放てる訳ではないため、いずれは打つ手がなくなってしまう。「八つ首を倒すには、矢が千本あっても足りない」と言われる所以である。
そうなると、接近戦で頭を全て切り落とすしかなくなるのだが、これも簡単な事とは言い難かった。なにしろ、強力な毒を持っている。牙が通ってしまえば、即死してもおかしくない量の毒を注入されてしまうのだ。対策に金属鎧などを着用しても、八つ首の顎の力は非常に強い。真偽の程はわからないが、篭手ごと腕を噛み潰されたという話もある。おまけに、生半可な攻撃では強固な鱗を貫く事も出来ず、与えた手傷も異常な速さで再生してしまう。「首を一本切り落とす間に三人死ぬ」とまで言われるが、それは誇張でもなんでもなかった。

だからこそ、『魔物』と呼ばれる。

その強力な魔物を、レイギンは一人で相手にし、倒したと言っているのだ。

「や、やっぱり、八つの頭を全部切り落としたの?」

恐る恐るチュルクは訊くが、どうやら触れて欲しくない事だったらしい。訊かれた瞬間レイギンの左の眉毛が釣り上がり、唇の端をひきつらせてチュルクの問いに答えた。

「ああ、全部切り落としたさ。八つじゃ済まなかったがね」
「あ、そっか…」
「いくら俺でも、一つも再生しないうちに全部の頭を切り落とすのは、ムリだ」

一体何回頭を切り落としたのだろう? チュルクはそう思ったが、訊くのはやめておいた。今度こそ、レイギンの逆鱗に触れてしまいそうだ。

「依頼人には信じてもらえたの?」
「道案内が証人になってたが、口裏合わせて仕事サボったと思われちゃ困る。落とした首を全部依頼人の所に持って行ってやったら、『こんなに大蛇がいたんですか!?』だと!? そうじゃねぇだろ!」

事情を知らなければ、常識的な反応と言えなくもない。

「おまけにあの村長、どうしても1500しか出さないなんて言い張りやがる」

そうは言っても、1500ルシュタと言えば、一ヶ月は余裕で暮らせるだけの額だ。
もっとも、八つ首相手の報酬額と考えれば、確かに割には合わないかもしれない。複数人で相手をしても、返り討ちにされる確率の方が高いのだから。

「結局は折れてやったが、もうあの村には行くか!」
「ごめんなさい。依頼を仲介したのはあたしだから、今度からもう少し詳しく調べとかないと」
「いや、チュルクは悪くないよ〜」

しゅんとしてチュルクが下を向いたのと、灰色のローブをまとった男が割り込んで来たのは同時だった。彼は頭に布を巻いていて、細身で中性的な顔立ちをしている。髪の色と瞳の色はともに透明感のある紫色だが、肌の色が日焼けでもしたように浅黒い。今の季節は秋だから、本当に日焼けしているわけではないだろう。年の頃は20歳前後だろうか。どうやら魔法使いのようだ。

「レイギンの話には、少しおかしな所がある〜」

妙に間延びした話し方をする。聞きようによっては、歌うような話し方と言えなくもない。

「どういう意味だ、ティム?」

嫌な顔をして、レイギンは返す。
誤解を招く言い方をしてしまったと思ったのか、ティムは慌てた様子で手を振った。

「あ〜。『おかしな事』っていうのは、レイギンが本当に八つ首を倒したかどうか、って事じゃないよ〜。『泉』って言ったよね〜?」
「ああ。それがどうかしたのか?」
「そんなに大きな泉だったの〜?」
「いや、そう大きくはなかったな」
「だよね〜? もしそうなら、『池』とか『湖』って言ってる筈だ〜。 やっぱりな〜」

険しい表情になり、ティムは一人で納得しているようだった。レイギンには、ティムが一体何を考えているのかがわからない。

「何が『やっぱり』なんだ? 説明してくれ」
「ああ、ゴメン〜。『学院』の説では、八つ首は水精の具現化したものの一つなんだ〜。水竜のなり損ないと言ってもいい〜」

ティムはそれが説明になっていると思っているようだが、レイギンは魔術師でも賢者でもない。そちらの方面には殆ど精通していないので、何を言わんとしているのかさっぱりわからなかった。

「説明になってないんだが…」
「つまりね〜、水の精の力が非常に強い地だと、その力が何かのかたちを取って具現化する事があるの〜。その一番強力なものが水竜で、八つ首はその一つ下くらい〜」
「俺の行った泉は、水の精の力がものすごく強い所だったって事か? 泉がわき出てる位だから、確かに水の精の力は強いんだろうが、どうって事のない泉だっ…ああ、それでさっき、大きな泉かどうか訊いたのか」

レイギンには、なんとなくティムの言いたい事がわかってきた。

「察しがいいね、その通り〜! 八つ首は普通、大きな湖や、大規模な沼沢地に現れるんだ〜。小規模な泉に現れたなんて聞いたのは、これが初めてだよ〜」
「あの泉はおかしいって事か?」
「そう〜。八つ首が現れるほど水精の力が強いのに、その場所に泉しかないって言うのはおかしすぎるよ〜。もともと水精の力が異常に強い地なのか、あるいは〜」

ティムの表情は、いつになく険しくなっていた。もっとも、彼の話し方のせいで、緊迫感も何もあったものではなかったが。

「今はまだ見つかってないけど、遺跡や魔法装置が近くにあるのかもしれない〜」
「チュルクにそこまで調べとけって言うのも、酷だって言いたいのか?」
「そういう事だね〜。実際にその場所に行ってみないと、そんな事はわからないよ〜。それに、ある程度魔法や精霊に詳しくないと、行っても何もわからない〜。現にレイギンは、普通の泉だとしか思わなかったんでしょ〜?」
「そもそも、レイギンが楽な仕事を独り占めしようとしたのが悪ぃんだろ?」

今度は、さっきの大男が割り込んできた。

「じゃあダルナス、たかが大ヘビ一匹駆除するのに、お前だったらわざわざ何人も雁首揃えて行くのか?」
「それもそうだな」

手練(てだれ)同士だからこそ出来るやりとりだった。危険生物の域に入るとは言え、並みの腕では単独で大蛇を相手にするのは厳しい。

「依頼書に書いてある事を、なんにも考えずに信じちゃったのが悪かったのかなぁ」

独り言のようにそこまで言って、このままでは『犯人探し』の雰囲気になってしまいそうな事にチュルクは気付いた。流れを変えようと、別の方向に話を持って行こうとする。

「でもさ、ポジティブに考えようよ! レイギンは一人で八つ首を倒しちゃったんだから、それ、宣伝文句に使えるよ?」
「普通は与太話と受け取るだろ。それに、そもそもチュルクは依頼を仲介しただけだ」
「どこなんだ、依頼元は?」

ダルナスが質問したと同時に、入り口の扉が開く。

「おはようございます。レイギンは今、いますか?」
「こいつだ」

いきなりそう言われ、入って来た赤毛の青年は、困惑した表情でレイギンの方を向いた。




「一体何の話です?」

全身を覆う簡素なマントに、頭をすっぽり覆う白い帽子。帽子と言うよりはただの布に近いその縁から、軽くくせのある赤毛がのぞいている。首元には、リーライナの信徒である事を示すプレート状のシンボル。それは、彼が女神リーライナの信徒である事を示していた。

戦いの神であるリーライナの信徒と言えば、敵に回すとそれ以上恐ろしい存在はいないと言われている。しかし、彼はそんな印象からはかけ離れていた。彼は柔和な表情を浮かべている事が多く、ほとんどいつも笑いの切れっ端を唇の端にひっつけている。リーライナの女性信徒には比較的こういう者は多いが、男性となると少数派だ。一説によれば、彼はかなり腕が立つのだが、それを悟らせないためにいつもへらへら、もとい柔和な表情を浮かべているらしい。

もっとも、あまりに表情が変わらないので、一部では「ワライダケを食べてしまって元に戻らなくなったのではないか?」とまで囁かれている。

レイギンは苦笑いを浮かべながら、珍しく困惑した顔をしている彼に話しかけた。

「カルハナ、また仕事持ってきたんだろ? 運がよかったな、俺が今、ここにいて」

八つ首を相手にする羽目になった事を皮肉っているのだが、当のカルハナはいきさつも何も知っている筈がない。レイギンにしてみれば、それも皮肉に入れているつもりだ。

「レイギン、わけのわからない事を言わないで下さいよ。それに、今回の仕事はかなり楽だった筈なんですけどね」
「ああ。楽すぎて死ぬ所だったよ」

とたんに、あちこちからくすくす笑いが沸き起こる。カルハナはいつの間にか柔和な表情になっていたが、瞳の色は困惑していた。

と、そこで、レイギンはカルハナの後ろにいる人物に気付いた。服装はカルハナと同じく簡素な旅装束だが、フードを目深にかぶっており、顔は見えない。
先程からの会話のせいで、カルハナはここに来た目的を忘れているのか、それとも話を切り出すタイミングを掴みかねているのか。カルハナの後ろにいる人物が、彼が今日ここに来た事と関係しているのは、ほぼ間違いないだろう。また実地訓練だろうか?

「それはそれとして、今度の仕事は、後ろの人のつきそいか?」

どうやら、タイミングを伺っていた方が正解らしい。助かったと言わんばかりの表情を一瞬浮かべた後、カルハナは話し始める。

「そうです。この子の実地訓練の、指導教官をお願いします」

カルハナの話を聞きながら、レイギンは既に見定めを始めていた。

「ある程度の増減はあると思いますが、期間は…」

(線が細い。体力面には注意した方がよさそうだ)

「まだまだ戦い慣れていませんから、あまり無茶はさせないで下さいよ」

(その通りだな。正面切っての戦いの場数を踏ませるに越したことはないが、戦いを俯瞰する方や支援に重点を置いた方がいいか?)

「じゃあ、頼みますよ。あまりこき使わないで下さいね」
「俺は、出来る事は自分でやる主義なんでね。ところで、顔くらい見せてくれよ、少年」
「あの…わたし、男じゃありません」

確かに、全身を覆うマントのせいで、体のラインまでははっきりわからない。しかし、本人の事をまだ何も聞いていないのに、性別を決め付けてしまったレイギンも失礼というものだろう。

しかし、彼女は怒る素振りすら見せず、ゆっくりとフードをはねのけた。

「へぇ、なかなかの美人だな」

一言で言えば、レイギンの言葉通りになるだろう。少女はだいたい歳の頃10代後半くらい、この地には珍しく黒髪で、長く伸ばしたそれはさらりとした光沢を放っている。瞳の色は栗色。顔もこのあたりに多い、彫りの深いものではなくて、やさしげな印象である。確か、この大陸にはこんな民族はいないはず…別の大陸であれば、珍しくないと聞いた事があるが…。

(本当に実地訓練なのか?)

そう思ったが、それについては口には出さない。

「とりあえず、名前を教えてくれ」
「えっ!? アr…えっと、アルフィス・レイト、仮司祭です。よろしくお願いします」

戸惑いながらそう言うと、少女はあたふたと頭を下げた。
緊張による戸惑いではない事は、すぐにわかった。

(こういう嘘をつくのは、初めてなんだろうな)

どうやら訳ありのようだ。この場で訊いたのはまずかったか…。

(本人達がどこまで言うつもりなのか知らないが、意識のすり合わせをきちんとしとかないと、マズイ事になりそうだ)

思いつつ、アルフィスの方に顔を向ける。彼女は、不思議そうにレイギンの方を見つめ返してきた。

「あの、何かあるんですか、私の顔に?」
「目がある。鼻がある。口がある。耳がある」

ぺらぺらと早口でまくしたてるレイギンの方を、アルフィスは呆気に取られた表情で見ていた。
レイギンは冗談でそんな事を言った訳ではなく、話の流れを変えるためにそう言っただけだった。
ただし、アルフィスが予想外の返答を返してきたが。

「顔には耳、ありません。私、一応人間ですから」

(おや?)

ふとある事に気付いて、レイギンは首をかしげる。気付くか気付かないか程度の変化ではあるが、最後の言葉は語調が弱くなっていた。初対面だから、というわけではないらしい。

(よくわからんコだ。まぁ、いいか)

知ってもいい事なら、そのうちわかるだろう。とりあえず裏に何かあるのか、何もないのか、それをはっきりさせておかなければ…そう思い、カルハナに話しかけようとしたレイギンだったが、当のカルハナはいつの間にか、柱にもたれて船をこいでいる。

「おい、カルハナ!」

返事はない。

「こら、起きろ!」

疲れているのか、呼んだくらいでは起きないようだ。

レイギンがうんざりしてため息をつくのを、アルフィスが困った表情で見ている。彼女自身、カルハナを起こすべきかどうか迷っているようだ。

「こいつ、そんな疲れる事でもしたのか?」
「夜通しで歩いて来ましたから、それででしょう」

彼女の言葉が本当ならば、確かに疲労困憊していてもおかしくない。しかし、アルフィスの方からは、そんな様子は微塵も見て取れなかった。

「あんたは何ともないのか?」
「…こういう事には、強いので」

自分の能力や素質を自慢したりする方ではないのか、アルフィスは少しはにかみながら、うつむき気味にそう言った。これにはレイギンも驚いてしまった。何しろ、持久力はないと見て取ったのが、一晩歩きづめでも平気だというのだから。

「あんたは見かけによらず、体力面で長じているみたいだな。それが理由かい、戦う道を選んだのは?」
「いいえ」

アルフィスはそう言うと、嬉しいのか悲しいのかわからない、そのどちらとも受け取れる笑い方をすると言葉を続けた。

「私、まだ司祭になるかどうか決めていないんです。かあさまにそう言ったら、色々な経験をつんでからでもいいだろう、って言われて。それに…」
「それに、何だい?」

とたんに、彼女の表情が曇る。

「言いたくないなら、言わなくていい。実地訓練の教官とは言っても、余計な事を探る権利までは持ち合わせちゃいないんでね」
「すみません…」
「おいおい、何であんたが謝るんだよ?」

同時に、「戦いに出るのは神官戦士じゃないか?」という疑問が生じたが、これは後に取っておく事にした。判らない事は多いが、触れてはならない事に触れてしまってもまずい。

「それにしてもレイギンさん、レイギンさんは最初カルハナさんから実地訓練に出る人を預けられたとき、かなり難色を示されたと聞きました」
「俺はシャールから流れてきた人間だから、リーライナ教団の習慣の事はよく知らなかったし、魔物退治の実地訓練だろ? 何考えてんのかと思ったよ」
「それなのにどうして、今回はすんなり引き受けてくれたのですか?」

アルフィスは、心底不思議そうな表情をしている。
そこに、チュルクがいきなり口を挟んできた。

「それはね、レイギンはかわいい女の子に目がないからなんだ!」
「えっ!?………そう…なんですか!?」

アルフィスの顔から血の気が引いたのと、レイギンが呆れ顔で否定したのは同時だった。

「チュルク、冗談はもう少し言葉を選んでくれ」
「え〜!? こういう時はお約束じゃない! 説得力ばつぐんだし!」
「ヘタに説得力がある分、後々まで尾を引きかねないだろ。まったく…」

さらに何か言おうとしたところ、カルハナのいびきが横槍を入れてきたため、レイギンは機を逸してしまった。その上、気勢を削がれてしまったので、彼はカルハナの方を恨みがましい目で見る。気持ちよさそうにいびきをかいていた。

「こいつは…しかし、放っとく訳にもいかないな」
「レイギンの部屋に寝かせとけば?」
「そうだな。こいつには訊きたい事もある」

レイギンはカルハナの横っ面を軽くひっぱたいて起こすと、寝ぼけている彼を無理やり引っ張って二階に行ってしまった。アルフィスがそれを、呆れたとも何ともつかない表情で見ている。

「カルハナさん、ここに来る時はいつもあんな調子なんですか?」
「そういうわけでもないよ。でも、レイギンとカルハナだものね」

チュルクはくすくす笑いながらそう言う。アルフィスは、彼女の笑いを半肯定と受け取った。

「ところで、さっきチュルクさんが言ってた事、本当ですか?」
「ん?何の事?」

全く心当たりがないらしく、完全に不意を突かれた表情でチュルクは返す。

「レイギンさんが、かわいい女の子には目がないって話ですよ」
「あれ? あ。そのこと?」

何故そんな事を訊かれるのかわからないとでも言いたげな、困惑した表情でチュルク。訊いた方のアルフィスも、どうして彼女がそんな表情をするのかわからず、困惑した表情になる。

「う〜ん…確かにレイギンの言うとおりだったのかなぁ…」
「レイギンさんが言ったとおりって、どういう事ですか?」
「ただの冗談だよ」
「えっ!?」

間抜けな声を上げて、そのまま言葉を失うアルフィス。美しい顔立ちなだけに、間の抜けた表情がさらに引き立っていた。
見かねてか、ティムが口を挟んで来た。

「チュルク、いきなりいじめちゃかあいそうだよ〜。まだ新入りなんだから〜」

カルハナよりも少し年下だろうか? しかし、カルハナもあれで20歳よりも上なのだから…そう思いながら、アルフィスはチュルクとティムの会話に耳を傾ける。チュルクは、意外な事を言われたような表情をしていた。

「あたしがアルフィスを、いついじめたの?」

(いきなり呼び捨てかぁ。でも、親しみの持てる人だから、いいや)

「何も知らないのにいきなりあれは、ひどいと思う〜」

ティムはそう言いながら、アルフィスの方をちらりと見る。アルフィスの方でも、それに気付いた。微かにではあるが、怪訝そうな表情が見て取れた。チュルクはティムのそんな仕草に気付いていないようで、そのまま話を続けている。

「緊張をほぐすのには、ちょうどいいと思ったんだけどなぁ」
「チュルクはそのつもりだったのかもしれないけど、アルフィスさんは警戒しちゃってるだろ〜?」
「話をするきっかけには、なると思ったんだけど」

一理ある理屈ではあるが、冗談が通じるかどうかもまだわからない相手に、そうするのはどうだろう?

「確かに、その点では成功してると言えなくもないよ〜」
「でしょ!? だってほら、その事で話になったじゃない!」
「でも、そのせいでアルフィスさんは警戒しちゃったじゃないか〜。そういうのはダメだよ〜」

ティムはそう言ってたしなめる。
非難される方向に話が持って行かれるとは思っていなかったのか、チュルクはむくれた表情になった。

「む〜! 最初は警戒しちゃっても、そのあと緊張がほぐれたならいいじゃない!」

ティムの方でも、この期に及んで反論されるとは思っていなかったようだ。

「話が平行線になりそうな気がする〜。折れとこう〜」
「ティムは、細かい所まで考えすぎなんだよ」

ティムの話し方のせいか、アルフィスには彼が『細かい所まで考えすぎる』性格のようには思えない。ただ、彼の言葉を思い返してみると、確かにそんな風にも思える。

しかし、それはそれとして、レイギンの件は実際のところどうなのだろうか? このままでは確信の持てる答えが返って来そうにない。それどころか、別の話題になってしまいそうだ。

危惧したアルフィスは、改めて訊いてみる事にした。

「あの、チュルクさん…本当に冗談だったんですか?」
「うん! 逆に、女の子扱いしてくれないかもしれないから気をつけてね! ああ見えて厳しいよ、レイギンは!」
「よく知ってるんですね、レイギンさんの事」

感心した口調でアルフィスが言うと、チュルクは軽く胸を反らし、誇らしげに言う。

「あたしのお仕事だもん! 得意な事や性格をちゃんと知ってないと、向いたお仕事を回せないからね!」
「なるほど。じゃあ、カルハナさんはどうなんですか?」

興味しんしんと言った表情で尋ねるアルフィスに対し、チュルクは「にやにや居眠り!」。

即答だった。

一瞬その場を沈黙が支配し、笑いがどっと巻き起こる。カルハナの特性に関してはともかく、『性質』に関しては図星なのだろう。

(この人、意外と本質を突くのかも)

ただし、アルフィスの求めた答えとは全く違う方向ではあったが。
同じ事を思ったのか、ティムが呆れ顔で口を挟んできた。

「チュルク、それはちょっと違うんじゃ〜…」
「うん! 実はわかってた!」
「ダメだって〜。そういう時に冗談を入れるのは〜」
「だ〜か〜ら〜! そんな事はいちいち気にしてちゃダメだって!」
「あんまりやってると、しまいにはアルフィスさんから信用されなくなるよ〜」
「まずは、気軽に話せる雰囲気作りだよ!」
「優先順位が違うと思う〜。だいたい〜…」

言ってもムダと思ったのだろうか。そこまで言っておきながら、ティムは呆れた表情のまま、次の言葉は発さなかった。

一方その頃、レイギンの部屋では。

「なんでそういう演技は一級なんだよ、このタヌキ」

心底呆れた声でそう言い、レイギンは軽くため息をついた。

「まぁいい。話を始めるか」
「少しは皆の注意が反れたでしょう? 私は今、寝ていると思っている方が多いでしょうから」

柔和な表情を浮かべ、カルハナはそう言った。




レイギンは最初、真剣な表情でカルハナの話を聞いていた。しかし、話が進むにつれ、だんだんとうんざりした表情になってくる。「バカバカしい」とでも言いたげだ。

話が終る頃には、レイギンは完全にやる気がなさそうな表情になっていた。

「しっかし、そんなアホらしい理由で命狙われちゃかなわんよな、あのコも」
「笑い事ではありませんよ。アルフィスにとっては、それこそ一大事なのですから」
「だからって、アホらしい事には変わりないだろう」
「否定はしません。でも、深刻な話なんですよ」

そうは言っても、カルハナ自身が呆れたような表情でそう言っては、深刻さも何もあったものではない。

「深刻なぁ…お前らにとって深刻なのは確かだし、あのコにとっちゃあいい迷惑なのも確かだが…」

レイギンはというと、どうも煮え切らないらしく、さっきから部屋の中をゆっくり行き来している。そして、思い出したように立ち止まってみたり、窓の外を眺めてみたり。

「だいたい、あのコの美しさを嫉んだ第二王妃から命を狙われてるってのはどういう事だ? リーライナ教団はそういう泥臭い話だとか、キナくさい話からは無縁だったんじゃないのか?」

そこでカルハナの方を見たレイギンだったが、カルハナは察していたのか顔を背けていた。

「何故顔を背ける?」
「目があったら、言いがかりを着けてくるつもりだったでしょう?」

当たっているだけに何も言えない。レイギンが黙っていると、カルハナはあくびを一つして話を始めた。長くなりそうだと思い、レイギンは近くにあった椅子を引き寄せ、座る。向きが逆だったので、背もたれに抱きつくような格好になった。

「さっきからぶうぶう文句言ってますけどね、そうばかばかしい事でもないと思いますよ。だいたい、背景にある事を聞けば、ばかばかしいとも言っていられなくなると思います」
「だったら聞いてやる。話せ」

嫌々そう言ったレイギンの表情とは対照的に、カルハナは真面目な表情になっていた。興味を引かれたらしく、レイギンは少し眉を動かした後、カルハナを真正面から見据える。そこにいるのは、深刻な話をする時のカルハナだ。

「いくらあなたでも、第二王妃がどうやってその地位を得たのかくらいはご存知でしょう?」
「確か、あれだろ? もともと貧しい平民だったのが、何かの折にここの国王の目に留まって、それで後宮入りしたってやつだ。その後、寵愛を受けているのを利用して第一王妃を実質的にその座から追い落とし、勢力を伸ばし続けている。確かそうだったよな?」
「その続きを、知っていますか?」

聞き耳を立てられている可能性を警戒してか、少し声のトーンを抑えてカルハナが尋ねてくる。レイギンは黙って首を振り、改めてカルハナの方を向いた。カルハナが続ける。

「宮中から、美しいと評判だった侍女が姿を消し始めたそうですね、第二王妃の勢力が伸び始めてから。暇を出された、とも考えられますが…」
「あるいは、文字通り消された、か」

ここまでは予想通りだ。少しの間をおいて、カルハナが再び話し始める。

「第二王妃は、自分の美しさを利用して勢力を伸ばして来ました。それ故、自分と同じような者の出現を極端に恐れたのでしょう。自分よりも美しい者のため、かつて第一王妃が辿ったのと同じ道を辿らされるのを」
「そんな時、あのコが現れたわけだ。悪い事に、王はあのコを気に入ってしまい、おまけにあのコはまだ司祭になっていないからまだ後宮入りが可能。要するに、かつて第二王妃がやったのと同じ事をする事が出来る、と。第二王妃はそれを恐れたわけだな?」
「おそらくその通りです。アルフィスが最高司祭について城に行ったその日に、もう脅しの言葉が来たという話ですから。最高司祭は危険と感じたのか、アルフィスを一時こちらに居させる事にしたようですね」

言って、カルハナはため息ひとつ。事は深刻とは言え、馬鹿馬鹿しさを捨てきれないらしい。

「あのコをこっちによこしたのは、神殿にいるといつでも引っ張り出されるからだろ? しっかし、やっかいだな。お前の言う通りだとすると、第二王妃は、おそらくかなりの敵意、危機感を抱いている筈だ。ああいう、偶然権力を手に入れた輩に限って、権力にものすごい執着心を示すからな…居場所がわかり次第、事故と見せかけて暗殺、なんて事をやるかもしれん。変装しても、あの髪と瞳だけはどうしようもないからな。こっちに来させて正解だったのか? やろうと思えば、仕事中の事故って事にして暗殺できるだろ。魔物退治の実地訓練だ」

困惑と深刻さが入り混じった表情を浮かべ、レイギンは立ち上がった。対してカルハナは、涼しい表情をしている。訝しんで彼の方を見たレイギンに不敵な笑いを飛ばすと、ゆっくりと、何でもない事を言うような口調で言い切った。

「なぁに、魔物退治の実地訓練なわけですから、何が出てきてもおかしくない筈です。たとえば、人間の姿をした怪物でもね」

レイギンの顔が一瞬ひきつる。

「全面対決するつもりか?」
「出来ますよね? なにしろあなたは…」
「出来ると言い切りたくはないが、出来るだろうな」

そうは言っても困るものは困る、レイギンの表情はそう言っていた。カルハナはそれを見てくすりと笑う。

「一ヶ月、持ちこたえて下さい。それまでに教団あげて何とかします」
「わかったよ。しっかし、それだけ危険な事に身をさらしといて報酬ナシ、か? 割に合わない話だ」
「そっちの方も、なんとか工面します。それに、アルフィスは優秀ですよ」
「ふうん…まぁ、そういう感じではあるな…」

アルフィスの事を思い出そうとしたのか、レイギンは斜め上を向いて黙り込んだ。考えを整理しているのかもしれない。

彼はしばらくの間沈黙していたが、何かに思い当たったのか、いきなりカルハナを正面に見据える。

「それはそれとして、だ」

険しく、疑いに満ちた表情。口調も、かなり厳しいものになっていた。

「第二王妃の件は信じよう。しかし、だ。それならそれで、腑に落ちない事がある」
「何でしょうか?」

カルハナの表情がとたんに引きつる。「やはり気付かれた」表情がそう語っていた。

「わかんねぇのは、教団の態度だよ。戒律に、『後宮入りしてはならない』とでもあるのか? 違うんだろう? もしあのコが後宮入りすれば、教団と王族の間にパイプが出来る。教団の発言力が増すよな? 教団にとっては都合のいい話の筈だ。なのに、何故それをしない?」

レイギンは一呼吸置くと、解せないといった口調で続ける。

「あのコは、教団にとってそんなに重要なのか? 何者なんだ? 何故手放せない?」

カルハナは、返答すべきかどうか迷っているようだった。目が泳いでいる。

「教団は、確か世襲制じゃなかった筈だよな。って事は、やんごとなきご身分、って訳でもないだろう。能力が抜きん出て高いのか? こっちは俺には良くわからないが、後宮入りを避ける程の理由とも思えない。教団上層部の隠し子の線もあるが、これだってそうだ」

ここでレイギンは一旦言葉を切り、カルハナの表情を伺う。戸惑った表情が、核心に近づいている事を伺わせた。

「なら残るのは、シンボル、禁忌、神託を受けた者…神託を受けた者だって言うのなら、とっくの昔に教団が祭り上げてるだろう。シンボルにしてもそうだ。となると、禁忌…なのか?」

カルハナは黙っていた。もう、間違いはなさそうだ。ただし、ど真ん中という訳でもないらしい。

「時々やらかそうとする輩がいるようだが…まさか、魔獣合成術の類で作り出した人間なんじゃないだろうな?」
「それは…違います」
「じゃあ、何だ?」
「私には答えられません」

カルハナの表情が、困惑したものに変わっていた。ただし、レイギンが予想したものとは別の困惑の仕方だ。
「おや?」と思い、少し訊き方を変えてみる。

「答える権限がない、って訳でもなさそうだな」
「それもありますが…」

苛立ちを感じているのか、カルハナはつま先で床をつつき始めた。どうやら、どう言えばいいのか決めかねているらしい。レイギンは無言のまま、カルハナが口を開くのを待った。

しばらくしてカルハナは口を開いたが、出てきた言葉は「私達自身も、判っていないのです」。
レイギンは拍子抜けして、椅子からずり落ちそうになった。

「何だよそりゃあ!?」
「率直に言えば、私達にも判らないのです。彼女が危険な存在なのか、それとも…」
「あ〜判った! もういい!」

レイギンは立ち上がると、手をぱたぱたと振ってカルハナの言葉を遮った。

「要するに、判断できないから危なっかしくて手放せないんだな? そこまで判りゃ十分だ。俺なんかが突っ込んじゃいけない所まで踏み込んじまったのは謝る。とにかく、あのコは教団から見ても監視対象なんだな?」
「そうです。彼女は…」
「だから、そっちはもういい。お前が俺を信用してくれるのは嬉しいが、そこまで足を踏み入れるつもりもない。第一、そっちは専門外だ」
「それもそうですね」

納得した表情でカルハナは頷いた。

「とりあえず、俺が気にしないといけない事情は、第二王妃がらみの件だな。ああ、そういえば」

立ち上がったままカルハナの方を見直すと、少し呆れた表情でレイギンは言う。

「あのコに嘘をつかせるのはいいが、もっと上手くやらせろ」
「努力はした、のですけどね」

カルハナは、苦笑しながら答えた。




その日の夕方、カルハナはシュネルを発った。数時間しか睡眠を取っていない筈だが、彼にはそれで十分だったらしい。アルフィスだけに構っていられるほど暇でもない、という理由もあるのだろう。

カルハナを見送った後、レイギンはアルフィスに部屋で話があると伝えた。一対一でなければならない話だと気付いたのだろう、アルフィスの表情からは緊張が見て取れる。

階段を登り、借りている部屋の前まで来ると、レイギンはアルフィスに部屋に入るよう促した。彼女は今、簡素な白のワンピース姿だ。リーライナの女性信徒の標準的な服装で、肌が出る箇所を極力押さえている。飾り気がないせいで、彼女のほっそりとした体形がよくわかった。足元近くまである長いスカートが、彼女の動きに合わせて、時折かさりと音を立てる。

「とりあえず、適当にかけてくれ」

言いながら、後に誰も着いて来ていないか、それとなく確認する。それが終わると、レイギンは部屋の扉を閉めた。誰かが部屋に近づいて来ればすぐに気付けるように、扉からは離れない。

扉にもたれかかると、レイギンは腕を組んだ。窓から西日が差し込んでおり、光と影の強いコントラストを作っている。

「あの…レイギンさん、一体何の話を…食堂ではダメなんですか?」

椅子に腰掛けたアルフィスの表情は、緊張で強張っていた。それが姿勢にも現れており、猫背気味になって小さくなっている。

「そう緊張しないでもいい。取って食おうって訳じゃないんだ」

レイギンは苦笑すると、そのまま話を続けた。

「カルハナから話は聞いた。第二王妃の件は、俺はだいたいの事情を知っていると思ってくれ」
「はい。でも、どうしてそんな事を?」
「俺が事情を知らないと思ったら、あんたがそれを隠すために妙な言動をしちまう可能性があるだろ? そのせいで、他の奴らから訝しがられる事になるのは避けたい」
「あっ! そういう事ですね! わかりました!」

合点がいった、と顔に出ていた。その表情を見て、レイギンはまた苦笑する。

「素直なのはいい事かもしれんが、考えを顔に出さないようにする事も、少しは練習しておけよ」

「あっ!」と声に出し、アルフィスは両手で口を塞ぐしぐさをする。
その直後、自分が何をしたのかに気付いたのか、彼女はばつが悪そうに俯いた。しばらくして少し顔を上げ、伏し目がちにレイギンの方を見る。

「これがいけないんですよね?」
「飲み込みが早くていいね。あんたが今までそういう世界にいなかったのは判る。だが、もう片足を突っ込んじまったんだ。少しずつでもいい、慣れた方がいいな」

言いながら、レイギンは軽く微笑んでいる。

「わかりました。気をつけます」
「それから、だ」

口を開いたレイギンの顔からは、微笑みが消えていた。
これからが本番なのだろう、アルフィスはそう感じ、さらに身を固くする。

「あんたの本当の名前を、俺は知らない」
「気付かれていたのですか!?」
「ああ。様子を見てりゃ、わかるさ」

困った表情になり、レイギンはため息をついた。彼がカルハナと話していた間、アルフィスは他の者達と一緒に食堂にいた。その時に気付いた者がいなければいいのだが、今となってはどうしようもない。

「そうですか…わたしの本当の名前は…」
「興味はないし、知りたいとも思わない」

アルフィスの言葉を、レイギンはぴしゃりと遮った。「では、何故この話をしているのか?」そう言いたげな表情で、アルフィスはレイギンの方を見ている。

「あんたの今の名前は『アルフィス』だろう? だから俺はあんたの事を、『アルフィス』で呼ぶ。名前以外の呼び方は出来るだけ避ける。その方が早く慣れるだろう? 呼び捨てなのは許してくれ」

アルフィスは最初、何を言われたのか判らなかったようだった。しかし、すぐに理解したようで、はっきりとした口調で返事をする。

「わかりました!」

そして、何が可笑しかったのか、口元に手を当ててくすりと笑った。

「ん? どうした?」
「呼び捨てでも気を悪くしたりはしませんよ。意外に律儀なんですね、レイギンさんって」
「律儀なもんかね?」
「律儀だと思いますよ」

少し緊張がほぐれたのか、アルフィスの表情には笑みが浮かんでいた。

「まぁ、最初みたいに『自分の名前』を忘れかけないように気をつける事だ。アルフィスが単なる俺の金魚のフンになるか、背中を預けられるようになるかはまだ判らないが…しばらくの間、よろしく頼む」
「ありがとうございます。あっ!」

そこまで言って、アルフィスは急に何かに気付いたようだ。椅子から立ち上がり、真っ直ぐ背筋を伸ばしてレイギンの方を見る。

「改めてお願いします! アルフィス・レイト、仮司祭です。レイギン・シュヴァルツ殿、ご迷惑をおかけすると思いますが、実地訓練の指導教官、よろしくお願いします!」

軍隊式の敬礼でもしそうな口調で言い放つと、アルフィスは深々とお辞儀をする。

(そう言えば、前の奴もこんな調子だったな)

レイギンは、以前受け持った神官戦士見習いの事を思い出した。扉にもたれかかるのをやめ、アルフィスの方に向き直る。

「『殿』は調子が狂うからやめてくれ。なんだったら呼び捨てでもいい」
「そんな、呼び捨てだなんて…じゃあ、最初のまま『レイギンさん』でいいですか?」
「それがいいならそうしてくれ。さて、と」

組んでいた腕をほどき、レイギンはドアノブに手をかけた。

「アルフィスが何が出来るのか知っておきたい。メシでも食いながら聞かせてもらおうか。他の奴らと組む事もあるだろうから、そいつらと一緒にな」

扉を開けながらそこまで言って、レイギンはふとアルフィスの方を向いた。

「ん? 俺がカルハナと話をしている間、もうそういう話をしたのか?」
「少しはお話ししました。でも…」

アルフィスは、少し困ったような表情を浮かべる。

「どうした?」
「ダルナスさんはちょっと、苦手です」

確かに、粗野を絵にしたようなダルナスは、アルフィスとは馬が合わないかもしれない。

「あいつは根っからの戦士だから、下品なのは許してやってくれ」
「いえ、それは仕方がないと思うのですけど…」

どうやら、少し事情が違うらしい。

「いきなり口説かれました」
「そういう事か。で、どうしたんだ?」
「無視して、『ダルナスさんとレイギンさん、どっちが強いんですか?』って訊いたら、黙っちゃいました」

どうやら、思っていた程おとなしい性格という訳でもないらしい。

(案外、扱いの難しいコかもな)

アルフィスが部屋を出たあと扉を閉めながら、レイギンはそう思った。
もう食事を始めている者もいるのだろう、階段の下からはいいにおいが漂ってくる。

アルフィスが先に立ち、二人は階段を降りて行った。


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